本書の著者はパソコン・ネットをその黎明期から使い続けてきた。機械の計算力や記憶能力が進歩していきインターネットが登場、ブログやSNSなどさまざまなサービスの開始などをリアルタイムで経験した世代だ。
PCの進化をたどりながら、著者のなかでは納得のいかない思いが育っていく。しだいに長い文章を読むのが面倒になり、1冊の本も読み通せなくなっていく自分に気づいたのだ。著者は自分の脳が高速データ処理機械となってしまい「以前の脳が恋しくなった」と本書の中で嘆く。
うーん、たしかに僕も本ぐらいは読み通せるけど、ネット上だと長めの文章は敬遠してしまうのが事実だ。それは莫大な情報の海を泳ぎ抜くためのやむをえない手段でもあったのだが、検索のスピード化で瞬時に答が見つかったり、リンクによって次々にサイトをたどっていくネットサーフィンなどで、脳の構造にもちょっとした変化が起きてるのかもしれない。やたら気が短くなったとか、すべてにおいてせっかちになったとか。
ネットが広まって以降に生まれた世代は、ひとつの文章をはじめから順を追って読み進めるのではなく、ページ全体をスキャンするように見わたして重要な単語だけ拾い上げていくのだそうだ。それって読書か? と思ったりもするけど、ある意味速読法に通じるかも。読み方が変わるだけではない。「本」というモノの形態が変わることは「内容の変化」も誘発するという。著者は一例として日本のケータイ小説隆盛にもふれている。つまり軽い内容になるってことか?
とまあ、ネットが僕たちの思考を変えたとはよく言われることだがよい方向にばかりとは限らない。人類全体が気まぐれで思考散漫になり、思考能力が衰えつつあるのかもしれない。
ネット検索中の人の脳の活動を測定するなど科学的手法でも、この仮説は検証される。同一の内容で直線的なテクストを読んだ人、さまざまな単語にリンクのついたハイパーテクストを読んだ人それぞれの理解度を比較した実験では「ひんぱんな思考中断は思考を断片化し記憶力を弱める」と結論された。う〜ん・・・
本書はまた人類の文明史にもページを割いている。言語や文字、地図や時計といった「精神の道具」の登場は文明の進化に大きく貢献した反面、それらに頼ることで失われたものもある。まさに諸刃の刃だ。ネットやPCもまた同じような役割を果たしつつあるのかもしれない。
著者はけしてこうした変化を批判しているわけではなく、避けられない時代の流れなのだとくどいほど文中で繰り返している。今はまだそのスピードや情報量についていけないが、人間はやがて「より機敏にデータを消費する存在」へと”進化”していくのかもしれない。それはそれでいいことだろうけど、著者の口調にやや悲観的ムードが漂うのはこちらの思い過ごしだろうか。
『ネット・バカ』・・・タイトルだけみると、ネット社会をやゆしただけのキワもの本かと思いかねないが、そこそこ学術的な面も併せ持つ一冊だ。本書を読んでからネット接続を少し控えるようになった小心者の僕だが、100%情報遮断してしまうわけにもいかない。要はネットと活字とのバランスをとることが大事なのかな・・・。
2013年2月6日水曜日
2012年8月28日火曜日
弱者は社会が崩壊する夢をみる… ~赤木智弘『若者を見殺しにする国』
インターネット出身、社会批評に携わる著者は
富裕層、貧困層の二極化が進む一方の「平和」な社会に異議を唱え
戦争によってもう一度世の中がリセットされることを待望する。
いまの世の中では自分たち弱者は生活の向上など望めず、人間としての尊厳も奪われ、
このまま生きながらえても末はホームレスか首を吊るしかない。ならばいっそ戦争でも起きたほうが…。
こんな論旨の「31歳フリーター、希望は戦争」という文章は大きな反響を呼び、職者からさまざまな意見が寄せられたということです。
たしかに暴論といえば暴論にも思えますが、貧困層の苦しみはそこまで深刻化しているのだと著者はいいます。
ジャーナリズムが煽りたてる「俗流若者論」を著者はまず攻撃する。本当に少年犯罪は増えているのか、昔はいまよりも凶悪犯罪が少なかったのかをデータをつかい検証を試みる。
さらに監視カメラによる不審者締め出しにも言及し、
「安定した地位にある層が中高年フリーターやニートなど「うさんくさい」連中の行動を警戒している」と指摘。
著者の持論にはやや私怨がまじっている印象もありますが、同じ弱者の目線から見た実感がこもっています。
朝日文庫刊の本書の冒頭、著者はみずからのプロフィールをこう紹介します。
文化とは疎遠な北関東の小さな町に育ち、社会へ出る頃にはバブルがはじけて就職氷河期、
東京でカルチャーに関わる仕事に就きたくても、地元を出て自立する生活力もなく
アルバイトで生計をたてながら細々とライター活動を続けている…
なんだか僕と境遇がよく似ています(事実、著者は文中で「このような人間はクサるほどいる」と書いています)。
ただ、この著者と僕のあいだに一点ちがいがあるとすれば、著者が現状を悲観的にとらえているのに対し、
僕はわりと現状を楽しんでしまっているという点でしょう。
もちろん年収への不満とか将来への不安はふつうにありますが、それは正社員になれば霧消するというものでもないでしょう。
リストラや倒産の不安は常についまとい、責任はフリーターより重くなる。しかも簡単なことでは辞められないという重圧感。
等々をテンビンにかけて現状もまあ悪くはないと思っているのですが、いつか大きなシッペがえしがくるかもしれませんね…。
最近僕はとある劇団の公演のために芝居の台本を書きましたが、その中で自分をモデルにしたような中年フリーターに
「いいか見てろ。大きな地震が来て世の中の仕組みが全部がらがらと崩れたときには、そのときは俺だっておおいに実力を発揮する。ああ、早くそんな日が来ないかなあ…」
というセリフを言わせました。
もちろんあの震災のあとなので観客にどう受け入れられたか定かではありませんが、
この「地震」と「戦争」を入れ替えれば、僕と本書の著者の考えは非常に近くなるような気もしました。
世の中がいまのままでは一生這い上がれそうにない人間たちは、
硬直した現状に変化を与えるためとあれば、それが戦争だろうが地震だろうがカタストロフを待ち望むのかもしれない。
震災後、著者はいったい何を考えたのか。過激とも思える持論はどう変化したのか。それは文庫版のあとがきで。
2012年7月25日水曜日
これってまるで自分のこと…?~ ドナ・ウィリアムズ『自閉症だったわたしへ』
一読して「ああ、まさにこの人の症状って自分とおんなじ。やっぱりオレって自閉症だったんだ!」
と、おのれの運命を嘆いた私でしたが、
似たような感想を抱いた人はきっと少なくないことでしょう。
だからこそ本書が話題を呼びベストセラーとなったのでしょうから。日本でも現在新潮文庫でパートⅢまで出ているようです。
この本が多数の読者に受け入れられた理由、それは著者が告白する自閉症者の世界(あえて自閉症“患者”とは言わない)が、
まだ社会と上手にコミュニケーションがとれる以前の幼児が体験する世界と同質のものだからでしょう。
僕たちはドナのいる世界をあとにして、この社会にどうにか適応したのかもしれません。
ドナの世界、そこはある意味エデンの園のようにも思えます。パーフェクトに自己の中で完結し、十分に満たされきっている世界。
でも他者と折り合うためにはその楽園を出なければなりません。それは苦痛に満ちた体験でした。とくにドナのような自閉症者には。
彼女は自分の内面の動きを驚くほど正確に、客観的に観察する。それだけ自分に対し他人行儀になれるのも、あるいはこの症状の特長かもしれませんが。
幼少時の記憶も鮮明で、ある種「つくられた記憶」かと勘ぐってしまったりもするが、
彼女には体験したものを脳内にまるごとコピーできる「サヴァン症候群」のような一面もあるのかもしれない。
また状況に対処するため複数の人格を使い分けているところは多重人格障害にも通じるように思う。
異常で悲惨な体験がこれでもかとばかりに綴られますが、
反面、幼ないころのエピソードのひとつである、心を許せる親友との出会いのくだりなどは素晴らしく、万人に訴える普遍性を感じます。無二の親友が他の人のところへ去ってしまった時の嫉妬や悲しみの感情も、少女時代を過ごした人なら誰しもおぼえがあるでしょう。
とはいえ学校では級友から疎外され、中途退学や再入学を繰り返し、転職につぐ転職のあげく不誠実な男たちに翻弄される行き当たりばったりの彼女の人生は、
まさに転がる石そのもので悲惨さは否めません。やはり自閉症に生まれついた人間は不幸なのだと結論せざるをえないでしょう。
彼女の症状の場合、家庭環境や成育歴の影響も疑えませんが(当人は本書の中で否定していますけれど)。
もっとも不幸なのは、これだけの感性を持ちながら、この症状ゆえにそれを外側へ訴えるすべが限られている点でしょう。
同時にそれは、多くの自閉症者が自分を表現することもできず、陰に日なたに「馬鹿」だの「キ××イ」だのと嘲笑される過酷な生を送っていることを想起させます。表現力に恵まれたドナのような例は、まさに幸運なケースといえるでしょう。
全編をとおし、その筆致は冷静に自分の置かれた状況を綴り、かつ卓抜な表現に満ちていますが
これはひとえに訳文の適切さによるもの。訳者の河野万里子氏の功績でしょう。おもわず自分の身に重ね合わせて読んでしまいます。
ドナはあとがきで「直接誰かと対話するよりも、紙に書くとかタイプライターを打つなど無機物を介したほうが自分の気持ちを伝えやすい」と語っています。話し下手でネット弁慶の気もある自分はこんなところも、この人とよく似ているような気がします。
やべえ、この文章、ドナになりきって書いてしまったなあ…。
2012年7月21日土曜日
トレンドは繰り返す、過去に学べ!~菅原健二『流行ノ法則』
たとえば現在に生きる僕らの目から見た明治や江戸時代と、
当時暮らしていた人々が考えるその時代とでは当然ズレがあるわけで、
同時代の視点でなされた時代観察、あるいは分析は
少し距離をおいて客観的に見たのとはまた違う印象になるだろう。
とくにメンタルな部分などは振り返って見るのとは別のリアルタイムのナマナマしさがあり、
そういった書物を探し出すのも、古本漁りのダイゴ味であります。ウィッシュ。
というわけで本書は80年代後半、時代がバブルにさしかかった時期に出たトレンド分析本です。
アマゾンにも在庫がない本だ。MG出版という版元も現在はおそらくないだろう。
トレンドという言葉も古いなあ。というかトレンドというものが予測可能と考えられていた時代がいまとなってはひどく牧歌的に感じられるというか。いまは先が見えない時代だもんなあ。あ、これも昔から言われてるか。
さて、流行には周期があるとかリバイバル現象があるとかはよく聞きますが
著者はそれまでの各時代にヒットした商品やTV番組、人気を集めた芸能人などさまざまな事象をとりあげ、
「一匹狼か群れ会う羊か」「勤勉なアリか享楽的なキリギリスか」など対立する二項の図式をつくり、
さらに両者が数年おきに入れ替わるという自論を展開しております。若干コジツケの感じはありますけど。
一世を風靡したヒット商品や出来事は、ある世代から上には懐かしく、
それらがリアルタイム目線で語られているのは、いまとなっては貴重です。
余談ですが古本屋で購入した本書には「ヤングキング創刊」というチラシがはさまっておりました。
お宝にはならないでしょうが、こういう発見も古本ハンティングの楽しみのひとつです。
2012年6月28日木曜日
一度住むと抜け出せなくなる呪われた沿線?~三善里沙子『中央線の呪い』
東京下町から北関東にかけてをウロウロしながら人生の大部分を過ごしてきてきた自分にとり、東京の西側というのはどこか縁遠い土地だった。
高円寺、阿佐ヶ谷、荻窪、吉祥寺といったカルトな街が並ぶ中央線沿線。古本、古着、雑貨などこだわりの店が集まり、むかしから太宰治、井伏鱒二など文化人も多く、カルチャーの香りと物価の安さ(?)に魅かれてマンガ家、演劇人、ロッカー、フーテンが集まる街。コーヒーやラーメンなど庶民の味にこだわってツウをうならせる街…。
年に数回、芝居やライブを見に行く程度ではしょせん外部の人間、観光客と同じ。中央線文化の上澄みをすくっているだけで真髄に触れることはできはしないでしょう。本書「中央線の呪い」はそんな中央線ガイドの役割をしながら、80年代に盛んになった都市論の流れをくむ一冊です。都市論といってもカタいほうじゃなく、泉麻人氏などが始めた東京都内の地域格差ゲームの延長線上といえばいいでしょうか。
著者は中央線沿線の住人を「マルチュー」と呼び、一見バカにしているようですが、そのまなざしには愛情が感じられます。おそらく本人も元マルチューだからでしょう。愛憎半ばするというか同族嫌悪というやつか。
「マルチューは西の下町にほかならない」という箇所もあり、なかなか的をえた指摘だと思いました。僕のような「東側の人間」にも中央線の街がどこか親しみをもって感じられるのもそのせいでしょう。
1980年代後半のバブルは歴史ある商店街を次々とツブし、安いベンツが並ぶ立体駐車場や窮屈で住みにくそうなデザイナーズマンションがひしめく、小奇麗ではあるがどこか無味乾燥な風景へと変えていきました。中央線沿線やそこに住む人々は、それらバブルのアンチテーゼでありカウンターカルチャーなのだ的に見られています。
だけどそんなマルチューの人々にも、心の底にバブリイなものへのあこがれがなかったわけではなく、そうした屈折した心情を著者はブログ的な小ネタですくいあげていってやたらおかしい。同じ中央線内の街でも外からでは分からない等級があるとかないとか。ま、あくまでシャレですから目クジラたてて「あの街がエライ」「いやこの街のほうが上だ」みたいにライバル意識を燃やすのは控えたいもんです。
バブルがはじけたことで古着やアジアン雑貨などの中央線的アイテムも、本書が書かれた当時から比べると市民権を獲得してるようです。中央線沿線は呪われているのではなく、むしろ祝福されているのかも。
2012年6月20日水曜日
この親にしてこの子あり…?~ブルース・オズボーン『OYAKO』
この写真集に収められているのは、有名人、一般人を問わずたくさんの親子を写したモノクロ写真の数々。
はじめはパンクロッカーとその母親という意外性を狙ったところからスタートした企画だったそうだ。しかし平凡な庶民であっても十分ドラマ性が伝わってくる。本書の序文の「いろいろな親子がいて全部ちがうことが面白い」という言葉どおりです。
カメラのレンズの前にならんだ二人は、おそらく別々に見れば親子とは気づかれないにちがいありません。服装も外見もちがう、おそらくふだん生きてる世界も全然ちがうのでしょう。なのに、なぜか両者のあいだに通い合うものが感じられるのは、やっぱり「親子だから」の一言に尽きますねー。白バックに二人の人物だけというシンプルな構図も、互いの関係性を映し出すのに最適なのかもしれません。
オズボーン氏はこのポートレイトをライフワークとして続けており、登場した親子の中には時を隔てて十数年後にふたたび二人で写真に納まっているケースもある。二枚の写真のあいだに流れた年月や親子の歴史を感じさせる一方で、時がたっても変わらないものも感じさせます。
以前ライターの仕事で、この写真集をつくったブルース・オズボーン氏の撮影現場にお邪魔しました。オズボーン氏は被写体となった親子をリラックスさせるため終始陽気に振る舞い、ポジティブなエネルギーに満ちた人柄がうかがえました。撮影を手伝う娘さんの姿もあって、常に同行しているのだとか。オズボーン氏の写真から伝わってくる温かさの理由がなんとなく分かりました。
2012年5月13日日曜日
あらゆる場所に猫たちが…猫好き必見の写真集~荒木経惟『東京猫町』
『東京日和』、杉浦日向子とコラボした『東京観音』など、アラーキー氏には東京を題材にした作品集がいくつもあるが、
なかでもこれは「猫」がテーマ。
一見ふつうに街並みを撮った何の変哲もない写真のように見えるが、
よーく見るとどの写真にもワンポイントのように猫が写りこんでいる。実にまあ、彼ら(彼女ら)の風景に溶け込んでいること。
猫というのは、非常に敏感な動物なので
カメラを向けていることがばれると逃げられてしまう。
なので、とんでもない「引き」で撮ったり、画面の隅にさりげなくフレームインさせているのだろう。苦労がしのばれる。
しまいにページを開くたび、目を皿のようにして
さて、猫はどこに…と「猫探し」が始まってしまう。ウォーリーをさがせ!みたいな写真集なのでした。
ついには宅急便のクロネコマークまで登場する始末(笑)。ユニークなのはマンションの猫専用階段。こんなの初めて見た。
バブルがピークを迎えた90年代初頭とはいえ、東京にはこの作品集で見られるような懐かしい街並みが残っていたんですね。
あとがきでアラーキー氏は「猫がいる町はイイ町」と書いている。
そういえばバブル後のきれいに再開発された通りには、あまり猫の姿を見かけないんだけど…と少し気になった。
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