2013年6月11日火曜日

文芸誌? それとも音楽誌? 〜「パピルス」と「月カド」



久しぶりに新刊書店をのぞいたら、幻冬舎が出している「パピルス」が大幅にモデルチェンジしていたのでびっくりした。知らなかったのは僕だけでみなさんとっくにご存知だったのかもしれないが。

「ゆず」の二人を特集しているが、判型が普通の文芸誌サイズになり、表紙もずいぶん地味な感じになって、それまでと同じ雑誌とは思えないくらいだ。

「パピルス」ってあまり中身を読んだことないのですが、ジャンル的には文芸誌でしたよね。にも関わらず毎号、有名アーティストや俳優を取り上げている。

これってその昔の「月刊カドカワ」と同じ路線だなと遅まきながら気がついた。

「月刊カドカワ」は僕の記憶でははじめ純然たる文芸誌としてスタートしたものの、何かの折りにアーティストを取り上げたら売れ行きがよかったらしく、

その後は毎号「総力特集」と銘打って一組のアーティストに徹底的にこだわるスタイルになったようだ(ちがってたらすいません)。

活字が好きな層と、音楽が好きな層って微妙に重なるんでしょうか。どちらも表現という意味合いでは同じなのかも知れません。事実、僕が見た新刊書店では「パピルス」も、また「月カド」の後継者的存在である「別冊カドカワ」(特集は矢沢永吉)も音楽誌のコーナーに並んでました。

「純然たる文芸誌」時代の「月カド」は僕もよく知らないのですが、アーティスト総力特集の頃は毎月のように図書館で借りてました(買わなくて失礼)。

当時は1990年代。カラオケブームからJポップへ移行する時期だったでしょうか。厳密には違うかもしれませんが、僕が熱心に読んでたのはそのあたりです。

毎号、本人によるエッセイ風文章やカバーストーリー、ディスコグラフィー等でひとりのアーティストにあらゆる角度から迫り、とても充実した内容だったと思います。

ここから尾崎豊の一連の著作をはじめ、話題になったアーティスト本が次々に誕生しています。

アーティスト側にとっても「月カド」に取り上げられたということは創造性の高さを認められたも同然で、かなりのブランドアップにつながったようです。

当時、「月カド」の編集者として尾崎豊らの「文才」を発掘したのが、いまの幻冬舎社長見城徹氏。「パピルス」が「月カド」の流れをくんでいたとしても不思議ではありません。

まあ、僕が感じた「月カド」の功罪をひとつあげるとするなら

本来書くことはアマチュアといってもいいアーティストやミュージシャンに(文章力という意味ではありません)、プロ同等の執筆の場を与えたことで、その後のインターネット上における個人のホームページやブログの隆盛ともあいまって、文芸のアマチュアリズム化に拍車をかけたのではないかという点ではないかという気がします。アマチュアの身で、エラそうにすいません。

「総力特集」だけでなく、通常の連載ページもなかなか興味深い執筆陣を集めていた「月刊カドカワ」。古書店で全巻揃えたら90年代のJポップをはじめとしたサブカルチャー史の貴重な記録となるでしょう。幾らぐらいするんだろうなー。いや、集めないけど。一冊、また一冊と地道に探していくのも楽しいかもしれませんね。

「パピルス」の話で始めたのに昔の「月カド」の思い出で終始してしまいました。ヤングの方にはすいません。

2013年6月9日日曜日

たまには愛について真剣に考えよう 〜福田恒存『私の恋愛教室』(ちくま文庫)





近頃多いものに幼児虐待があります。「いったい子どもを愛していないのか!」と怒りを感じる方も多いでしょう。いまの世の中狂ってる、と。

だけどこれは現代社会の病理なんかじゃない可能性もある。そもそも「親の愛」ってほんとに存在するんだろうか。

「愛」なんて観念は西洋から輸入されたもの。もともと日本にはなかったものだとはよく聞く話だ。本書でも著者の福田恆存がそう指摘している。

なるほど。だから貧しい寒村では平気で(平気じゃないかもしれないけど)生まれたばかりの赤ん坊を間引きしたりしてたのか。そんな結論はちょっと乱暴かもしれないが。

文明開化とともに「愛」が西洋から運び込まれた明治時代、それまではおおらかに「野合」を楽しんだり、村の若者が人妻に「夜ばい」をかけたり、はたまた「妾」を囲って自分の甲斐性を誇ったり、好き放題やっていた日本人は、「愛」という新奇な観念をどう取り扱えばいいか頭を悩ませることになった。

海の向こうから「愛」がやってきたおかげで男女関係はややこしくなり、鴎外や露伴、北村透谷らの文学の主要なテーマともなった。本書でも精神的な恋愛がどういうものか分からない当時の日本人の恋愛観を皮肉った二葉亭四迷の作品の一節が紹介される。

その滑稽な恋愛模様を読むと「しょせん僕ら日本人は恋愛になんか向いてなかったってわけだ、肉体的にも精神的にも」とヒクツになってしまいます。

まあ最近では若者たちのルックスもよくなり、社会のモラルもゆるんで昔の僕らより恋愛のハードルが低くなったみたいだ。だからって「いい恋愛」ができるかどうかはまた別問題だと思うんだけど。

またD.H.ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』は、翻訳された当初わいせつか否かで裁判沙汰にまでなったが、原作者の本当の意図は性の解放などではなく、むしろその反対だったと著者は言っている。実はロレンスは性的規範については非常に厳しかったのだと。そのくだりを読んで思わず自分の少年時代の体験を思い出した。

当時、見知らぬ土地へ引っ越してきた僕は、地元の子どもたちの仲間に加わるとき、エッチな話題をするとやたらウケがいいことに気づいた。

それからは皆に溶け込もうと意識的にシモネタばかり披露するようになってしまい、みんなのあいだで僕は病的なエロ大好き人間という評判がたってしまった。ご、誤解だあっっと今でもたまに叫びたくなる。

そんな自分がいま気になるのは、エロ男爵の異名で有名な某男優だ。彼は本当にエロ好きなのか、それともエロ好きイメージで人気が出たために不本意ながらそれをキープし続けているのではないかと・・・

なんだか話があちこちとんでしまったな。それだけ愛とは深くて広いテーマなのかもしれません。

というわけで愛について教えを乞いたければ本書『私の恋愛教室』を。もともと女性獄舎を意識しているのか文体もやさしいです。なにぶん昔の本なので(元版は1959年発行)著者の考え方もやや保守的な部分がないではないですが、若い女性の身を気遣うデリカシーが感じられてこれもなかなかいいもんです・・・。

2013年3月24日日曜日

ただのノスタルジーじゃあらへんで! 〜重松清『あの歌がきこえる』(新潮文庫)




70年代末から80年代初頭にかけて、本州の西のはじの小さな町で成長していく少年たちを主人公にした連作長篇です。

中心となるシュウ、ヤスオ、コウジの友情はもちろん、親や教師との確執、ほのかな恋心、そしてこの時期の少年たちには最大の過大かもしれない受験や進学をテーマにした、実にまっとうなビルドゥング・ストーリーです。



それこそ似たような話は古今東西いくらでも書かれており、目新しくもないと言われればそれまでなんですけど、そこは重松氏ならではの小道具づかいのうまさで、この連作は各エピソードが表題となっている当時のヒット曲を軸に展開していきます。

フォーク、ロック、歌謡曲、ニューミュージック・・・。昔の流行アイテムを素材に使うだけなら単なる懐かしネタで終わってしまうところですが、やはり音楽というやつはティーンエイジャーの生活になくてはならない存在でして、『あの歌がきこえる』ではそれらの曲が物語を進める重要なカギになってます。のみならずリアルタイムで聴いていた人々の心情もきっちりと書き込まれ、ただのレトロ扱いになってません。



各エピソードにも当時を生きていた人でなければ理解できないような心情が見事に織り込まれています。

まあざっくりと言ってしまえば、70~80年代頃の地方都市というのは退屈で人間関係がわずらわしくて、そこに残り続けることは自分の可能性を捨てることを意味していた。何かやりたい若者は誰でも東京へ行きたがった。地方と東京との(精神的な)距離は、いまよりずっと遠かったものです。

『あの歌が聴こえる』の背景となっているのは大学に進んで何もない生まれ故郷の町を出て行くか、進学しないで地元に残り続けるかという人生コースの図式がよくもわるくもきっちり存在していた時代。その図式を破壊したのは自分のような、学校出てもストレートに就職しなかった(できなかった)人間たちかもしれませんけど。当時はモラトリアムとか呼ばれてたっけ。いまじゃそれもわりと当たり前ですけどね。

東京が新しい刺激的なものをあまり生み出せなくなって、地方にもファミレスやショッッピングモールでまったり過ごすライフスタイルが定着して、若者たちも無理して都会へ出て行こうとしなくなった。ここよりほかに素晴らしい場所があるという幻想は次第に失われてきた印象があります。



社会学者・宮台真司氏も指摘するようにかつてのテレクラブームにより「近場」で男女が出会うことがわりと容易になったり、埼玉の某町に「ナンパ族」なるものが出没したりした時期が転換点だったように思う。ナンパ族も最初はけっこうバカにされてたんですけどね、「都会へ出たくても出られない奴ら」と。

ネットの登場で「郊外化」はさらに加速するんだけど、それはさらにあとの話。重松清の『あの歌がきこえる』からはそんな時代の大きな変化が押し寄せる前の「あのころ」が伝わってきます。

2013年2月25日月曜日

WEB上のバカや暇人はいまも順調に退化中? 〜中川淳一郎『今、ウェブは退化中ですが、何か?』(講談社)

ニコラス・G・カー『ネット・バカ』に続き、またもインターネット批判本を読む。
『ウェブはバカと暇人のもの』(光文社新書)が話題をよんだ著者の、その続編ともいえる本。
前述の「ネット・バカ」といい、どれもみなネット信奉者の神経を実に上手に逆撫でするタイトルばかり。逆にそれが思わず手にとる気にさせるテクニックなのかもね。

ネットニュース編集者の著者が情報を発信する側でありながら、個人的にはツィッターやSNSに一切手を出さず、トラブルを避けるため自分の情報はけしてネットにあげようとしないというのも皮肉な話だ。
それだけ日本のネット民度は低いのだといえる。その低レベル具合は本書にもあるように『WEB進化論』などでネット社会の明るい未来を希望をこめて語った梅田望夫氏が「日本のウェブは残念」発言をしてしまったくらいだ。

またネット事情に詳しい立場から「2ちゃんねる」への悪評を行き過ぎたものと擁護し、逆に紹介制だから安心とされているSNSの危険性にも言及している。まあこの著者にしてもネットリテラシーが低い人間への差別意識は見え隠れしてて、ネットなんてたいしたもんじゃないと言いきってしまうことが逆に最上級のネット選民であることを証明してる感じはあるけど。

さらに著者は、ネットに対して人々が抱きがちな過大な期待感を指摘する。たしかに僕らはなぜこんなにも「ネットを使えばいいことが起きる」と思い込んでしまうのだろう。非常に素朴な疑問ではあるが。
答えはおおよそ見当がつく。ネットでひと儲けできます、友人知人がたくさんできますと過剰なPRがはびこっているからで、「ウェブ2.0」や「クラウドコンピューティング」など分かったような分からないような新語を連発してITや広告業界の連中が煽ってるのはもはや明白だ。
PCやネットなんてただの道具。ネットで成功するのははじめから才能や素質があった人。もともとダメな人はネットに頼ってもダメという身もフタもない結論になりそうだ。

自分は何のためにアクセスもほとんど集まらず、金銭的利益があるわけでもないブログ書きなんかを続けているのだろう。本書を読みながら何度も自問自答させられた。
著者にいわせれば自分は「ウェブ上で評論家ぶりたい人間」の範疇にはいってしまうのだろうか。本書にはネットに書き込みをする人間が幾種類かタイプ分けされていて、読書録を書くのはリア充タイプとなっているが、オレはけしてリア充というわけではないし・・・
たしかにHPやブログを始めた当初は、ネットを通じて書く仕事につながればなどとバカな期待を抱いたりもしたが、その種の絵空事はほとんど起きなかった。多少あったにしてもあまりいい結果にはならなかった。ただ書くことは好きなので今後もこつこつと書き続けてはいくでしょうけど。
「だったらネットに書かなくてもいいじゃん」というツッコミが聞こえそうだ。実際、旧来の紙メディアに戻ろうかなんて時代逆行的な動きも自分の中にある。ほとんど未知数のマスに向けてではなく、確実に目指す相手に伝わる方法へとシフトし始めている。

自分のことはおいといて本書の話に戻ります。

「ほんとうにたいせつな人も仕事も人生もネットにはない」と著者は言い切っている。
FBなどの実名SNSが一般化して事情はだいぶ変わってきたが、PC画面の向こうの顔も素性もわからない相手よりは自分の身のまわりの人間関係を大切にしようというしごくまっとうなアドバイスは現時点でもきっと有効だ。
バカと暇人のウェブは今も退化中。そう嘆く著者は、骨がらみでネットに関わったあげくもはや「解脱」の境地に行き着いてしまったのでしょう。著者が本書の出版に至った経緯もネット経由ではなくリアルな人間関係を通してのものだそうだ。
そうかリア充だったのか。だったらムリしてウェブ上に自分をさらけ出す必要もないのかもな・・・



2013年2月13日水曜日

新しいメディア、さあどうする…30年前みんなが頭を悩ませた 〜中本正勝他編著『情報で町づくり』

図書館で地域活性に関する本を探していたらまさにぴったりのタイトルの本が見つかり、借りてきて読んでみたら80年代後半に出版された本でした。30年近く前かよ・・・。

当時の社会のIT化(そのころはマルチメディア化といった)への取り組みの実例が本書には列挙されているが、会議に会議を重ねた末、出てきた結論は商品の流通VANだとか、駐車場案内システム、CATVなどが精一杯というところだったようだ。いや、あの頃はそれでも大革命だったんだろうけど。牧歌的な時代でしたねえ。

本文中、コンピューターをどう使うかについて識者が語るコメントには、いわゆるオカミからの標語みたいな大層なフレーズは頻出するのだが、具体的に何をどうしたいというところはほとんど出てこない。新しいものにうとい一般庶民はそれを聞かされてもますますそっち方面には興味をなくすんじゃないかみたいな・・・。

マルチメディアという言葉が出てきたということは逆にいえばそれまでの社会は単一のメディアによって動かされていたわけで、情報は新聞・テレビのような大企業、権力側から一方通行に流されるものとされていた。そんな状況ではコンピューター利用についての発想の貧弱さはまあ仕方ないところでしょう。いきなりコンピューター回線でエロ画像を流そうなどと考える人もごくわずかでしょうし。

マルチメディアの新たな利用法が開発されるには。その後のインターネット隆盛などによる世の中の変化を待たなければならなかったわけです。僕が見てきた感じでは、その変化、つまり「面白い使い道」は、お役所主導というよりも、ネット上の名もなき2ちゃんねらーやユーチューブ、ツィッター、SNSのメンバーたちが作っていった印象が強い。

この本はC&C文庫の一冊、発行はNEC日本電気文化センターになっている。当時はパソコンメーカーが出版業に乗り出すほどコンピューターの分野は急成長分野だったことがうかがえる。

ちなみにC&Cとは「コンピューター&コミュニケーション」を意味する頭文字。たしかNECの社内報タイトルにも使われていたはずだ。当時僕はこの社内報づくりに関わっていたことがあったが、制作にはDTPなんかいっさい使わず、下請けの印刷会社が活字を切ったり貼ったりの原始的な方法でつくっていました。ま、パソコンで世の中が変わると大合唱してたわりに実際はそんなものでした。

情報で町づくり (C&C文庫)

2013年2月6日水曜日

ネットはわたしたちをおバカにしている!? 〜ニコラス・G・カー『ネット・バカ』

本書の著者はパソコン・ネットをその黎明期から使い続けてきた。機械の計算力や記憶能力が進歩していきインターネットが登場、ブログやSNSなどさまざまなサービスの開始などをリアルタイムで経験した世代だ。

PCの進化をたどりながら、著者のなかでは納得のいかない思いが育っていく。しだいに長い文章を読むのが面倒になり、1冊の本も読み通せなくなっていく自分に気づいたのだ。著者は自分の脳が高速データ処理機械となってしまい「以前の脳が恋しくなった」と本書の中で嘆く。

うーん、たしかに僕も本ぐらいは読み通せるけど、ネット上だと長めの文章は敬遠してしまうのが事実だ。それは莫大な情報の海を泳ぎ抜くためのやむをえない手段でもあったのだが、検索のスピード化で瞬時に答が見つかったり、リンクによって次々にサイトをたどっていくネットサーフィンなどで、脳の構造にもちょっとした変化が起きてるのかもしれない。やたら気が短くなったとか、すべてにおいてせっかちになったとか。

ネットが広まって以降に生まれた世代は、ひとつの文章をはじめから順を追って読み進めるのではなく、ページ全体をスキャンするように見わたして重要な単語だけ拾い上げていくのだそうだ。それって読書か? と思ったりもするけど、ある意味速読法に通じるかも。読み方が変わるだけではない。「本」というモノの形態が変わることは「内容の変化」も誘発するという。著者は一例として日本のケータイ小説隆盛にもふれている。つまり軽い内容になるってことか?

とまあ、ネットが僕たちの思考を変えたとはよく言われることだがよい方向にばかりとは限らない。人類全体が気まぐれで思考散漫になり、思考能力が衰えつつあるのかもしれない。

ネット検索中の人の脳の活動を測定するなど科学的手法でも、この仮説は検証される。同一の内容で直線的なテクストを読んだ人、さまざまな単語にリンクのついたハイパーテクストを読んだ人それぞれの理解度を比較した実験では「ひんぱんな思考中断は思考を断片化し記憶力を弱める」と結論された。う〜ん・・・

本書はまた人類の文明史にもページを割いている。言語や文字、地図や時計といった「精神の道具」の登場は文明の進化に大きく貢献した反面、それらに頼ることで失われたものもある。まさに諸刃の刃だ。ネットやPCもまた同じような役割を果たしつつあるのかもしれない。

著者はけしてこうした変化を批判しているわけではなく、避けられない時代の流れなのだとくどいほど文中で繰り返している。今はまだそのスピードや情報量についていけないが、人間はやがて「より機敏にデータを消費する存在」へと”進化”していくのかもしれない。それはそれでいいことだろうけど、著者の口調にやや悲観的ムードが漂うのはこちらの思い過ごしだろうか。

『ネット・バカ』・・・タイトルだけみると、ネット社会をやゆしただけのキワもの本かと思いかねないが、そこそこ学術的な面も併せ持つ一冊だ。本書を読んでからネット接続を少し控えるようになった小心者の僕だが、100%情報遮断してしまうわけにもいかない。要はネットと活字とのバランスをとることが大事なのかな・・・。


2012年8月28日火曜日

弱者は社会が崩壊する夢をみる… ~赤木智弘『若者を見殺しにする国』


インターネット出身、社会批評に携わる著者は

富裕層、貧困層の二極化が進む一方の「平和」な社会に異議を唱え

戦争によってもう一度世の中がリセットされることを待望する。


いまの世の中では自分たち弱者は生活の向上など望めず、人間としての尊厳も奪われ、

このまま生きながらえても末はホームレスか首を吊るしかない。ならばいっそ戦争でも起きたほうが…。

こんな論旨の「31歳フリーター、希望は戦争」という文章は大きな反響を呼び、職者からさまざまな意見が寄せられたということです。

たしかに暴論といえば暴論にも思えますが、貧困層の苦しみはそこまで深刻化しているのだと著者はいいます。


ジャーナリズムが煽りたてる「俗流若者論」を著者はまず攻撃する。本当に少年犯罪は増えているのか、昔はいまよりも凶悪犯罪が少なかったのかをデータをつかい検証を試みる。

さらに監視カメラによる不審者締め出しにも言及し、

「安定した地位にある層が中高年フリーターやニートなど「うさんくさい」連中の行動を警戒している」と指摘。

著者の持論にはやや私怨がまじっている印象もありますが、同じ弱者の目線から見た実感がこもっています。


朝日文庫刊の本書の冒頭、著者はみずからのプロフィールをこう紹介します。

文化とは疎遠な北関東の小さな町に育ち、社会へ出る頃にはバブルがはじけて就職氷河期、

東京でカルチャーに関わる仕事に就きたくても、地元を出て自立する生活力もなく

アルバイトで生計をたてながら細々とライター活動を続けている…

なんだか僕と境遇がよく似ています(事実、著者は文中で「このような人間はクサるほどいる」と書いています)。


ただ、この著者と僕のあいだに一点ちがいがあるとすれば、著者が現状を悲観的にとらえているのに対し、

僕はわりと現状を楽しんでしまっているという点でしょう。

もちろん年収への不満とか将来への不安はふつうにありますが、それは正社員になれば霧消するというものでもないでしょう。

リストラや倒産の不安は常についまとい、責任はフリーターより重くなる。しかも簡単なことでは辞められないという重圧感。

等々をテンビンにかけて現状もまあ悪くはないと思っているのですが、いつか大きなシッペがえしがくるかもしれませんね…。


最近僕はとある劇団の公演のために芝居の台本を書きましたが、その中で自分をモデルにしたような中年フリーターに

「いいか見てろ。大きな地震が来て世の中の仕組みが全部がらがらと崩れたときには、そのときは俺だっておおいに実力を発揮する。ああ、早くそんな日が来ないかなあ…」

というセリフを言わせました。

もちろんあの震災のあとなので観客にどう受け入れられたか定かではありませんが、

この「地震」と「戦争」を入れ替えれば、僕と本書の著者の考えは非常に近くなるような気もしました。


世の中がいまのままでは一生這い上がれそうにない人間たちは、

硬直した現状に変化を与えるためとあれば、それが戦争だろうが地震だろうがカタストロフを待ち望むのかもしれない。

震災後、著者はいったい何を考えたのか。過激とも思える持論はどう変化したのか。それは文庫版のあとがきで。