2015年12月1日火曜日

揶揄するところもない土地にいったい何があるというんですか! ~『東京するめクラブ 地球のはぐれかた』




 

村上春樹の新刊『ラオスにいったい何があるというんですか』が刊行された。

なんだかラオスの国とそこに住む人々を小馬鹿にしているようなタイトルだ。村上先生は以前も自作の中で北海道の実在する街について多少皮肉めいた描写をして抗議を受けた過去がある。

 そのときはたしか村上側が謝罪、問題の箇所もあらためられたそうだが。いやー、今回も懲りなかったというか自分のポリシーを貫いているというか、またもや物議をかもしだしそうで心配だ。

 

で、つい最近読んでたのが「東京するめクラブ 地球のはぐれ方」(文春文庫刊)。そのうち感想を書くつもりでそのままになっていましたが、このタイミングでUPできるのはラッキイです。

 

正確にはこの本、村上春樹著ではありません。村上氏[塩沢哲1] 吉本由美、都築響一によって結成された「東京するめクラブ」による共著ですが、実際この本を手に取る読者にとっては村上春樹がメインの書き手という認識でしょう。

 

その村上氏が第1章でいきなり名古屋を揶揄している。

これがけっこう差別的でシャレとしてはややキツい。よく地元に住んでいる方々から抗議が来なかったもんだ。おそらく名古屋の人たちは都会人なので、あー、こんな見方もあるのねと軽く受け流しているのでしょう。

北海道某町のケースとちがい本書はエッセイ・ノンフィクションというジャンルにあたるので、書かれた内容が事実そのものと受け取られるリスクも大きい。もちろんあくまで書き手の主観がもとになっているし、正確な記録が目的ではないから誇張的な表現があるのも当たり前なのだが・・・

 

名古屋以外にも熱海、ハワイ、江の島などさまざまな地に「東京するめクラブ」の面々が訪れ、メンバー各自がリレー形式でその地に関する文章をつづっている。もちろん全てが揶揄的な内容ではなく、一方で地元の名物やこだわりスポットの紹介があったり、その地についての比較的真面目な考察もある。

よーく読み込むとそれとなく分担が分かれている印象がないでもない。たとえばもっとも茶化した目線で書かれた文章は村上氏ではなく別の方のものであったりとか。これはハルキ・ムラカミ本人がその種の文章を書くことで作家のイメージがダウンしないようにという計算であろう。

 

いずれにせよ本書の内容について、執筆者のなかでもっともネームバリューがある(と思われる)ハルキ・ムラカミ氏が矢面に立たされてしまうのは、やむを得ないところでしょう。

 

 どんなからかいや悪口もシャレで済ませてしまう都会の人たちもいる反面、過疎が進んでるような地域にとって、愛すべき郷土のイメージダウンにつながるような記述は見過ごしにできないだろう。その気持ちもよーわかる。

『地球のはぐれ方』の揶揄的部分は、刊行された当時では許されても、いまだったら社会情勢等の変化で発表できないかもしれない。

だけどそれを読んだ僕らは失笑をまじえつつ「これってホントなの!?」とちょっと興味をひかれ、思わずその土地に足を運んで実情を見届けたくはならないだろうか?

 

 個人的には揶揄的な文章を否定しない。というかむしろ大好きなんですね―これが。

書かれる対象に配慮したり、クレームに発展するのを怖れて自己規制ばかりしていたら、そこからは毒にもクスリにもならないつまらないものしか生まれないだろう。作家の書くものはあくまで文芸。しょせん作家は芸人なのです。皮肉や毒舌が好きな読者はだいたいシャレだって分かって話半分で読んでますしね。

からかわれるものは、それと同じぐらいの魅力があるはず。ラオスだって、きっといい場所にちがいありません。

2015年10月19日月曜日

愛と裏表の憎まれ口か? 小谷野敦『このミステリーがひどい!』(飛鳥新社刊)


 
 






これだけたくさんのミステリーを少年期から読み、たんねんにトリックの矛盾や読後感をつらねている著者は、もしかしたら意外とミステリー好きなのではないでしょうか。ジャンルに対する愛情がなければなかなかできることではありません。そんなふうに思わされてしまう一冊です。

 
エンタメ小説の紹介本といえば作品をホメて持ち上げるのがごく普通なので、本書のような視点もある意味貴重です。「つまらなかった」とストレートに書いたり堂々とネタばらしする書評ってそうあるものではありません。
 
 
 第1章から著者の私的なミステリー読書歴で始まり、その後も個人の事情や私情めいた記述がやたら飛び出してきます。やや暴論めいた印象も受けますがそれが持ち芸になってて、僕がこの人の書いたものの好きなところです。


「芥川賞というのは、伝統的に、面白くない作品を選ぶことになっている」
「実際はそう大したことのない作品が、出版社のカネの力とかでヨイショされている現状があって、これは推理小説に限らない」

(著者あとがきより)


 読んでて思わず「ひええ」と声を上げそうなこうした発言も本書の読みどころといえましょう。

 

ここで本書あとがきに記された著者のミステリーベストをあげておきましょう。
 
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
・1位 西村京太郎『天使の傷痕』

・1位同点 筒井康隆『ロートレック荘事件』

・3位 貴志祐介『硝子のハンマー』

・4位 ヘレン・マクロイ『殺すものと殺される者』

・5位 中町信『模倣の殺意』(『新人文学賞殺人事件』改題)

・6位 北村薫『六の宮の姫君』

・7位 折原一『倒錯のロンド』
 

・・・・・・・・・・・・・・・・・


 巻末には内外のミステリーやSFの代表作を列挙した年表までついており、そのへんもこの本が純然たるミステリー批判を目的としているのかどうか判断を危ぶむところです。憎まれ口は愛情の裏返し、愛と憎しみが同居するアンビバレンツな性格の書です。


 著者と僕との行動範囲はけっこう重なっているようで、僕がよく通っている市立図書館の名が文中に突然登場したりします。年齢も近いし、もしかしたらこの図書館で接近遭遇してるかもなあ。
 

 僕自身、少年時代から十代ぐらいまでさかんに読み漁っていたミステリーも最近はほとんどごぶさたです。本書を読んで、友人たちと読んだ本や見た映画、TVドラマについてあれは面白いだの、いや駄目だだの、さかんに熱弁をかわしていた頃を思い出しました。大人になってジンセイが複雑になってきたいまは、現実の暮らしに必死でフィクションの世界に没頭する心の余裕がないのでしょう。あるいは著者の指摘するとおりミステリーは、いや小説はジャンルとしての役割を終えようとしているのかもしれません。
 
 
「小説はたくさん書かれてきたが、さまざまな実験をおこないつつ、それもネタ切れになり、映画やテレビドラマ、漫画やアニメといった新しい表現手段によって地位を切り崩されてきて、かろうじて映画化、ドラマ化などの手段を通じて生き残っているのである」
(著者あとがきより)
 
 
 大真面目なミステリー評論というより、著者特有のややひねくれたスタンスで書かれたヨタ話だととらえたほうが推理小説ファンにとっては精神衛生上よろしいのではないでしょうか。あまり真剣にとらえて傷ついたり著者に反感を抱いたりしないよう願うところです。

 

2015年8月18日火曜日

名文ってなんだ?  斎藤美奈子『文章読本さん江』(ちくま文庫)



 

 とあるライター養成講座に参加して、課題として何冊か文章術について書かれた本を読んだ。 

今回取り上げる斎藤美奈子『文章読本さん江』もそのときに読んだ1冊。しかし文章術を書いたというより、文章術について書いた本、いわゆる“文章読本”を比較検討、批評してしまおうという趣向の1冊だ。メタ表現わかりづらくてすまん。 

 これまで綿々と刊行されてきた文章読本の歴史を時代をさかのぼってざっくりまとめ、文章指南の「党派」を明快にジャンル分けした本書を読むと、それぞれの著者によって「よい文章」の見解がちがい、おのれの正しさを主張しあっている構造が明らかになる。 

 ときに真っ向から180度対立し、時代や社会背景にも大きく左右される「文章読本業界」の事情を、著者が毒舌芸を駆使しながら「名文」とはなにか、模索する。


さて、仕事や個人ブログで文章を書いてる身にいちばん興味深かったのは『パブリックな文章にはれっきとした階級制度が存在する』という著者の結論。

 要するに文章の世界は巨大な階級ピラミッドをなしていて、その最上部に位置するのがいわゆる「名文」をものする(おもに純文学系の)小説家、その下にジャーナリストや記者など職業的に文章を書く人たち(記者の中でも新聞と雑誌のそれではあきらかに前者のほうが上ということになってるようだ)。さらにその下層に存在するのが新聞の読者投稿や小中学生の作文といった無名の素人の書いたもの、という差別的な構造があるらしいのだ。

 文章指南本のほとんどはよい例、または悪い例として多くのサンプル文をあちこちから引用している。この引用の基準、つまり何を引っ張ってくるかにも微妙な階級意識が見え隠れしていると斎藤美奈子氏は指摘する。

 
 「よい例」とされるのは名前を言えばだれでも知っているような一流作家やジャーナリストの文章。対して「悪い例」に挙げられるのは、たいていが無名の素人さんの文章だ。まあ同じ業界でメシを食ってる以上、面と向かって同業者を攻撃できないオトナの事情もあるだろうが。そういう引用された文のもつ権威、バリューが引用した側の文章指南本の質を担保するという逆転現象も本書では説き明かしている。

  この場合、文章のバリューというのはあくまでもネームバリューであり商品としての価値であり、けしてクオリティではないことにも留意すべきでしょう。なんか名文の「血統」ができてて、血筋のよくないものはいくら能力があっても排除されてしまうみたいな。あとに続く無名の文章読本たちはその血統に連なろうと「名文」の引用を繰り返すのです。


 ところで、プロアマ問わずエッセイなどでよくありがちなのが、文の始まりに不特定多数の読み手に向かって「みなさん、いかがお過ごしでしょうか」といった挨拶めいた文句をいれたり、最後に「いかがでしたでしょうか」などとまとめっぽいフレーズで締めくくるパターン。

 僕が受けていたライター養成講座ではこういった読者への呼びかけは禁止、みたいなことをさんざん講師に言われた。

 たしかに「いかがでしたか」なんてのはお決まりっちゃお決まりの紋切り型でほとんど意味のないフレーズだ。でも公に出版されているエッセイやハウツー本には、そうした読み手への呼びかけ口調はざらに存在する。

 じゃ、なぜそれが禁じられているのか個人的につらつら理由を考えてみたのだが、

 つまり、読者に向かって語りかけるなんていうのは有名作家やエッセイストなど知名度のある人だけに許されることであって、たかが一般人かそれに毛が生えたような無名ライターが読み手に話しかけたりしてはならない。

  文章を書く人々の集まりがピラミッド型の階級社会を形成しているとしたら、下々の大衆に語りかける権利をお持ちでいらっしゃるのはそのなかでもとくに高い場所におわせられる高貴なお方だけなのだ。シロート同然のライターが大作家の真似なんぞすれば100年早いわい!と叩きまくられるだろう。 

 ありがたい文章術を伝授しようと上から目線の先生、ははーっとひれ伏して学びを乞う生徒。ここにも同じピラミッド構造が存在する。つづり方の授業は子供たちをマインドコントロールし、少し賢い子は大人が気に入りそうな内容の文を書くテクニックばかり身につけてゆく……。


 ライター講座では本田勝一『日本語の作文技術』も課題として目を通した。それなりに参考になるなーと思いつつ目をとおし、次に『文章読本さん江』を読んでみると、今度はその本田勝一本がやんわりと揶揄の対象となっているではないか。う~ん、まったく何を信じていいのかわからない。

  それならいっそ自分の好きなように書いてしまったらいいじゃないか。「名文」の基準なんか読む人次第。いっそ既成の権威なんか破壊してしまおう。

  と思いつつ、やっぱり文章ピラミッドを少しでも這い上がろうともがき続けてるしがない三流ライターでありましたとさ。


 

2015年8月10日月曜日

ひさしぶりのガイブン。 ~アゴタ・クリストフ『悪童日記』(ハヤカワ文庫)

 もう半年近く前になるでしょうか。とあるライター養成講座の課題で読みました。なにをいまさらな感じですが記録としておきます↓


 まず、主人公の少年たちをあずかるおばあちゃんのキャラで話に引き込まれる。イメージでいえば長谷川町子のいじわるばあさんか『千と千尋の神隠し』で千尋をこき使う湯婆婆という感じか。
 戦火のもと親元を離れて田舎へ疎開、厳しい環境に耐えたくましく生きてゆく…NHK朝の連ドラが好みそうな題材だが、日本ならいかにもウェットな話になりそうなところを本作品は短い断章を重ね、映画にたとえるならバラバラのシーンを無造作につないだような形式を採用、慎重に情感を排している。内面描写を抑え風景や物ひとつひとつを具体的に描いた文章も映像化に向いている。
 それぞれの断章は残酷でありどこかユーモラスでもある。孤独、貧困、異常性欲。戦時下という極限状況にいる人間のありのままの姿が主人公たちの視線を通し暴き出される。
 タフな世界へ投げ込まれた少年公たちはけして不幸な身を嘆き悲しんだりしない。「痛み、暑さ、寒さ、ひもじさといったあらゆる苦痛」に耐える修練を重ね、肉体と精神を鍛え独学で知力を身につけていく。
 愚劣な大人たちを手玉に取りしたたかに生き抜いていく様子はアンファン・テリブル、小さなモンスターだ。やわらかい心を捨てなければならなかった彼らはつぶやく。「ぼくらは絶対に泣かないんだ」
 そんな彼らのぶっきらぼうな語り口にも時おり母への思いが顔をのぞかせる。母から送られてきたお金で長靴を買いに行く場面で最後にさりげなく「母親の手紙はシャツの内側に忍ばせた」と付け加えたり、逃亡する父親の身元が割れないよう所持品を焼きながら母の写真だけは残しておくあたり、押しつけでない情感が迫ってくる。
 このように『悪童日記』はけして内面をないがしろにした即物的な記述ばかりの小説ではない。多くは語らないが抑制された感情が物語の背後からにじみ出ている。短い断章の多くでは、最後の一文が幕切れとして非常に効果をあげている。それはときに冷酷だったりもするのだが。
 万引き、恐喝、そして殺人とエスカレートしていく少年たちの行為に「子どもは純真なもの」と当たり前のようにいう人々はショックを受けるかもしれない。これははたして「戦争の狂気」によるものか、もともと子どもが持つ純粋な残酷さなのか。場所や年代をあえて特定しない寓話性は、酒鬼薔薇事件をはじめ多くの少年犯罪が大人をおびやかせている現代の日本にも通じるだろう。双子はエディプス的解釈そのままに父親を殺し、文字通りその死骸を乗り越えていく。
 この物語の主人公、一人でもじゅうぶん成立しそうなのに、作者はなぜわざわざ双子にしたのだろう? 読み進めながらそんな疑問がずっと頭の隅でもやもやしていたが、ラストの一行でなんとなく結論が浮かんだ。
 国境のこちらと向こうへ別れた双子、彼らはきっとその後長く対立が続いた西側世界と東側世界の象徴だったにちがいない。



 ↑外文を読むのも久しぶりだった。講座へ参加していなければなかなか読む機会がなかったわけで、それだけでも参加した意義はあったかな。

2015年1月12日月曜日

怒涛の江戸川乱歩リスペクト②~昭和の逢魔が時、子供たちが出会ったものは・・・







 「ぼくはきのうの夕がた、おそろしいものを見たんだよ」~少年探偵団シリーズ「灰色の巨人」より


 少年探偵団の舞台となったころの東京の街は、たそがれ時を迎えればきっといまよりも暗く、さびしい風景であったろう。

 この世のものではない異形の怪人、怪物が姿を見せるのはそうした夕方から夜にかけて、まさに魔界の門が開く逢魔が時である。

 薄暗い街灯がぽつりぽつりと立っているだけの路地、深い神社の森、大きな洋館の影。少し市街地をはずれれば郊外にはまだ住宅も少なく、荒涼とした景色が広がっていたに違いない。


「そのへんは、さびしいやしきまちで、高いへいばかりがつづいています。人どおりもまったくありません。町のところどころに立っている街燈の光が、あたりをぼんやりと、てらしているばかりです」~「灰色の巨人」より


 少年探偵団シリーズには「洋館」がよく登場し、たいていそこに住んでいるのは「お金持ちのえらい人」だったりする。典型的な日本家屋に住んでる庶民のガキだった僕は、この「洋館」というやつに憧れたものだった(笑)。

 その頃の子供たちは夕暮れが近づくと、遊びもそこそこに家路を急ぐ。あたたかい明かりの灯った玄関をくぐり、夕餉のしたくをするお袋の背中を見てほっとするのである。お袋が着てるのはもちろん白い割烹着ね。ああ、昭和のよき時代。

 さて、今はどうだろう。少し薄暗くなればあちらこちらでLEDの鮮明な光が路上を照らし、コンビニの電光看板が数十メートルおきに並んでいる。

 子どもたちはべつに帰宅を急がなくとも、買い食いでおなかを満たせるようになった。帰ってみたところで両親は共働きで夜遅くまで不在、茶の間は真っ暗。そんな家に早く帰りたいとは思わないだろう。ゲーセンに寄り道して時間をつぶす。

 夜とはいえ真昼のように明るい盛り場。行きかう人々。にぎやかな音楽。若い女性もむかしに較べれば安心して一人歩きできるようになった。

 でも暗闇を可能な限り追い払うことははたして正しいのだろうか?

 子どものころ、夜の闇がやたらこわかったのは僕だけじゃないだろう。闇への恐怖心は想像力をはぐくむのではないか。

 僕らは映画館の闇に身をひそめ、スクリーンにイマジネーションをふくらませる。ホラー・ムービーだって明るい部屋でみたら恐怖も半減だろう。

 谷崎潤一郎が礼賛した「陰影」を今の社会は排除しつつある。心の闇も嫌悪され、「ないもの」にされている。でもそれって誰もがひそかに抱えてるだろう。隠ぺいするから出口を失い膨れ上がって、犯罪という形で爆発してしまうんだ。

 闇が失われた現代では子供たちの心に想像力も育たないのでは。少年探偵団から話がずれてしまったが、当時の少年たちがあの作品に夢中になったのもそんな「闇のもつ魔力」ではないだろうか。

2015年1月8日木曜日

怒涛の江戸川乱歩リスペクト・ごあいさつ





 去年から今年にかけては乱歩生誕120年、没後50年という節目の年。現役作家が競作した少年探偵団テーマの短編集も刊行されたりしている。その表紙は昔なつかしいポプラ社の少年探偵団シリーズのテイストだ。

 そう、謎と冒険がいっぱいの「少年探偵団」というコンテンツ、昭和の少年だったオヤジたちだけのものにしておくのはもったいないではないか。

 異常心理や耽美な世界の書き手として知られる乱歩は、あやしいイメージで語られがちな作家だ。でも少年探偵団ものや同じポプラ社から出ていた推理小説のガイド本などで乱歩に初めて触れた僕には、彼は不思議な話をたくさん知っている面白くて優しいおじさんというイメージだった。

 そして昨年が乱歩の没後50年だったと知って、「この人は僕が生まれたとき、入れかわるように世を去ったんだな」となんか感じるものもあった。

 ある機会があって乱歩についていろいろ書いたり、久しぶりに少年探偵団シリーズを数冊読み返したりしていた。

 再読してあらためて気づいたのは、子供向けだから当然かもしれないが、そのリーダビリティ、読みやすさだ。とくに地の文章は「ですます調」で書かれていることもあり、まるで近所に住むちょっと風変わりだけど子供好きなオッサンが、とっときのフシギばなしを表情たっぷりに披露してくれてるような趣きだ。

 だからどんな不気味なストーリーでも、子供たちは安心してその世界に夢中になることができる。夕暮れの公園、紙芝居屋のオヤジのまわりに集合して、その口上を身を乗り出して聞きいっているような感じだろうか。

 乱歩をテーマにしたいくつかの文章、書きかけのままお蔵入りになってしまいそうなので、せっかくだからこの場に上げることにしました。次回からしばらく乱歩関連の内容が続くかと思います。僕から乱歩へのリスペクトということで――—。

2014年10月14日火曜日

いまはむかし、黄金の日々の夢のあと ~都築響一『バブルの肖像』




 今も全国あちらこちらに残るバブル時代の遺物や、胸に刻まれているあのころの出来事を豊富なカラー図版とともに再検証、いったいあの狂乱の時代はなんだったのか考えてみようという趣向の一冊だ(アスペクト刊)。

 僕自身、年齢的にはまさにバブルのど真ん中を走り抜けた世代です(あくまで年齢的には)。 当時、一介のフリーターの身分でありながらタクシーチケットを支給され、都心から埼玉のド田舎まで1万5千円近くもかけて深夜のご帰還をしてたりしたっけ。あのころネオンが輝く六本木から首都高を小一時間ほど飛ばして帰ってくると地元は真っ暗闇で彼我の差を感じさせた。

 そうそ、ふるさと創生事業と称し竹下政権が日本中に1億円ばらまいたこともあったっけ。降ってわいたようなそのカネで金の延べ棒を買ってうやうやしく陳列したり、黄金のトイレを作ったりとやたらゴールドにはしりヒンシュクをかった自治体も多かった。持ち馴れないカネを持つとこんな醜態をさらすんだといういい見本だったな。
当時の政府と同様、地方創生をうたう安倍政権も似たようなばら撒きを始めるんじゃなかろうか。バブルの夢よもう一度みたいに、

 みっともなかったのは個人レベルでも同様。当時の日本人はひたすら汗水たらして働くだけで、カネの使い方なんかまるきり知らなかった。最高級シャンパンでつくったうまくもないカクテルを飲んで悦に入ったり。たんなる成金ですな。
 当時の不動産や銀行、証券関係の「バブル紳士」たちは、いまではみんな体をこわしたか行方不明になってると、本書でも銀座の高級バーのママが証言してる。ああ、まさに強者どもの夢のあと。

 好景気の波は郊外や地方へも及んだ。垂涎の的となった高級住宅地チバリーヒルズを筆頭にとんでもないへんぴな片田舎にまで小ぎれいな住宅が建ち並んだ。死ぬまで続くローンを抱えたおとーさんたちは都心まで新幹線通勤。もちろん定期代は会社負担(全額じゃないかもしれないけど)。オッサン、そんなに会社にとって貴重な人材だったのかって聞きたくなるけど。

 そんなバブルと呼ばれた時期も本書によれば3年あまりでしかない。意外に短かったんだな。80年代ずっとそんな感じかと思ってたけど。
あの時期については誤解されている部分も多いような気がしていて、はたしてみんながみんな、バブル紳士のように遊び狂っていたのだろうかと個人的には異論を唱えたい気もする。

 その証拠には僕自身、この本が取り上げているバブリイな流行や風俗にはほとんど縁がなかったんだから。あ、それはオレが個人的にビンボーだっただけで、ちっとも証明になってないか。毎日のバイトからくたびれきって四畳半のアパートに戻り、深夜のTVのバカ騒ぎをぼんやり眺めてたぐらいで「なんだか騒々しかったな~」という印象しかない。

 あのころ日本人全部が金の亡者になってたみたいに言われがちだが、人によって、場所によってはバブルの恩恵を受けられなかったろうし、目の色を変えてカネを追いかける風潮に疑問を抱いていた人も多かったろう。

 まだまだ古い倫理観だって生きていたろうし、目の色を変えてカネを追い回す風潮をよしとしなかった人だって多いはずだ。後世に残るバブル史観には少し修正を加えたい気もするのだが。

 とはいうもののバブルがあったからこそ、多くの人がゴッホの「ひまわり」の実物を見ることができたのだろうし、人生は働くだけじゃない、遊ぶことだって大切なのだと初めて気づいたにちがいない。

 若いときに羽目をはずして遊びまくった時期があったからこそ、成熟したいい大人になれるんじゃないだろうか。バブルの時期に空間プロデュースにも関わった経験がある著者は、本書でもけしてバブルを完全否定はしていない。

 その後の景気悪化で買い手がつかず、ゴーストタウンのようになった高級住宅街とか、異様な外観で周囲の景色から浮きまくっている建造物とかが、本書が出版された2006年の時点ではまだまだ全国に残っていたようだ。いまはどうなんでしょう。この国の黒歴史として取り壊され跡形も残っていないかも。
そういったバブルの遺産を訪ねて、あの時代を偲ぶツアーとか個人的にやってみたいものだ。