2014年10月14日火曜日

いまはむかし、黄金の日々の夢のあと ~都築響一『バブルの肖像』




 今も全国あちらこちらに残るバブル時代の遺物や、胸に刻まれているあのころの出来事を豊富なカラー図版とともに再検証、いったいあの狂乱の時代はなんだったのか考えてみようという趣向の一冊だ(アスペクト刊)。

 僕自身、年齢的にはまさにバブルのど真ん中を走り抜けた世代です(あくまで年齢的には)。 当時、一介のフリーターの身分でありながらタクシーチケットを支給され、都心から埼玉のド田舎まで1万5千円近くもかけて深夜のご帰還をしてたりしたっけ。あのころネオンが輝く六本木から首都高を小一時間ほど飛ばして帰ってくると地元は真っ暗闇で彼我の差を感じさせた。

 そうそ、ふるさと創生事業と称し竹下政権が日本中に1億円ばらまいたこともあったっけ。降ってわいたようなそのカネで金の延べ棒を買ってうやうやしく陳列したり、黄金のトイレを作ったりとやたらゴールドにはしりヒンシュクをかった自治体も多かった。持ち馴れないカネを持つとこんな醜態をさらすんだといういい見本だったな。
当時の政府と同様、地方創生をうたう安倍政権も似たようなばら撒きを始めるんじゃなかろうか。バブルの夢よもう一度みたいに、

 みっともなかったのは個人レベルでも同様。当時の日本人はひたすら汗水たらして働くだけで、カネの使い方なんかまるきり知らなかった。最高級シャンパンでつくったうまくもないカクテルを飲んで悦に入ったり。たんなる成金ですな。
 当時の不動産や銀行、証券関係の「バブル紳士」たちは、いまではみんな体をこわしたか行方不明になってると、本書でも銀座の高級バーのママが証言してる。ああ、まさに強者どもの夢のあと。

 好景気の波は郊外や地方へも及んだ。垂涎の的となった高級住宅地チバリーヒルズを筆頭にとんでもないへんぴな片田舎にまで小ぎれいな住宅が建ち並んだ。死ぬまで続くローンを抱えたおとーさんたちは都心まで新幹線通勤。もちろん定期代は会社負担(全額じゃないかもしれないけど)。オッサン、そんなに会社にとって貴重な人材だったのかって聞きたくなるけど。

 そんなバブルと呼ばれた時期も本書によれば3年あまりでしかない。意外に短かったんだな。80年代ずっとそんな感じかと思ってたけど。
あの時期については誤解されている部分も多いような気がしていて、はたしてみんながみんな、バブル紳士のように遊び狂っていたのだろうかと個人的には異論を唱えたい気もする。

 その証拠には僕自身、この本が取り上げているバブリイな流行や風俗にはほとんど縁がなかったんだから。あ、それはオレが個人的にビンボーだっただけで、ちっとも証明になってないか。毎日のバイトからくたびれきって四畳半のアパートに戻り、深夜のTVのバカ騒ぎをぼんやり眺めてたぐらいで「なんだか騒々しかったな~」という印象しかない。

 あのころ日本人全部が金の亡者になってたみたいに言われがちだが、人によって、場所によってはバブルの恩恵を受けられなかったろうし、目の色を変えてカネを追いかける風潮に疑問を抱いていた人も多かったろう。

 まだまだ古い倫理観だって生きていたろうし、目の色を変えてカネを追い回す風潮をよしとしなかった人だって多いはずだ。後世に残るバブル史観には少し修正を加えたい気もするのだが。

 とはいうもののバブルがあったからこそ、多くの人がゴッホの「ひまわり」の実物を見ることができたのだろうし、人生は働くだけじゃない、遊ぶことだって大切なのだと初めて気づいたにちがいない。

 若いときに羽目をはずして遊びまくった時期があったからこそ、成熟したいい大人になれるんじゃないだろうか。バブルの時期に空間プロデュースにも関わった経験がある著者は、本書でもけしてバブルを完全否定はしていない。

 その後の景気悪化で買い手がつかず、ゴーストタウンのようになった高級住宅街とか、異様な外観で周囲の景色から浮きまくっている建造物とかが、本書が出版された2006年の時点ではまだまだ全国に残っていたようだ。いまはどうなんでしょう。この国の黒歴史として取り壊され跡形も残っていないかも。
そういったバブルの遺産を訪ねて、あの時代を偲ぶツアーとか個人的にやってみたいものだ。

2014年9月6日土曜日

喧嘩上等! 汚れた街をゆく孤高の哲学者 ~中島義道『醜い日本の私』



今回のエントリはちょっとビクビクもんで書いてます。誰が見てるか分かったもんじゃないインターネット。著者本人の目に触れる可能性もじゅうぶんにある… それでもどうしてもこの本はご紹介したい。泣く子も黙る怒りの哲学者・中島義道氏の『醜い日本の私』(新潮選書)です。

著者には「うるさい日本の私」という本もある。ひたすら客を呼び込む商店街のスピーカー、列車の乗降客にしつこく注意を呼びかけ続ける駅のアナウンス、お節介な役所の標語等々、無自覚にまき散らされる世間の雑音に著者がバトルを仕掛ける問題作だ。

著者はその本を出したとき、「タイトルの“うるさい”は、「日本」にかかるのか「私」にかかるのか」と知人から尋ねられたそうです。著者の答えは「“うるさい”日本の“うるさい”私」なんだとか。納得…。

その続編と言ってもいい本書のタイトルの意味も、「”醜い”日本の”醜い”私」だとか(笑)。いやあ、徹底して憎まれキャラを演じていらっしゃる。

今回も著者のヒールぶりは凄まじい。いきなり序盤であの大建築家・磯崎新氏の書いた文章に「おいおい、寝言をほざくなよ」とストレートにケンカを売るわ、勤務先の大学から教授仲間、住んでいる地元の役所まで、著者のゆくところ、どこでも凄絶なバトルが繰り広げられる。著者の主張はいちいちごもっともなんだけど、いやー読んでるだけで寿命が縮むわ。

…などと言いつつわたくし、この人のキャラはけして嫌いではない。嫌いではないんだけど、あまりお近づきにはなりたくない気もする(笑)。知り合いにこんな人がいたら身が持たんわ。うーん、まさにアンビバレンツ。ウイーン愛憎。

著者はけして相手を挑発しようとしているのではない。大真面目そのものだ。むしろ経過の一部始終を読むかぎりでは対応する側の不誠実さも目立つ。彼らは既成の常識を持ち出すだけで、自分の頭で考えようとしない。良識の皮をかぶって、対話することから、真摯に向かい合うことから、逃げているのです。そこが著者の怒りの炎に油を注ぐ結果となるのでしょう。

街の景観の話に戻るが、本書の冒頭で多田道太郎の「日本の商店街の原点は縁日である」という言葉が紹介されている。まさに至言だが、そのような商店街の風景に著者は違和感を捨てられずにいる。どぎつい悪趣味な看板、商店の店先から道ばたまではみだした商品の山、狭い路上に折り重なる放置自転車、頭の上でとぐろをまく電線…。

僕自身はゴミゴミした場所で生まれ育ったせいか、こういう景色がわりと嫌いではない。「美しい」とは間違っても思わないけど。著者自身いうように感性というものはひとりひとりちがうのだから、著者の意見に諸手をあげて賛成するつもりはない。

とはいうものの、電柱の林立する京都の街並みを美しいと誉め讃える人々について書かれたくだりを読むと、著者と同様の違和感を感じてしまう。善意のもとに巧妙なすり替えが行なわれているような気がするのだ。それはシャッターを閉めた店が目立つさびれた商店街を、「ここは歴史ある宿場町です」と持ち上げている、どことは言わないが僕の地元のギマン性にどこか通じるものがある。あんた、ほんとにそう思ってんのか?お客を呼びたいだけじゃないのか?って。

身のまわりの不快なものをそのまま見過ごしにせず、責任者のもとまで直談判に出向く中島氏は一見たんなるクレーマーのようだが、そうではない。哲学者である著者は自己の哲学を机上の空論とはせず実践に努めているのである。

そしてその実践の果てに、多数派が少数派を弾圧する社会の構造がみえてくる。この国に巣食う「多数決の名のもとに行なわれる排除」という重要な問題を、はからずもあぶりだすのです。これは見過ごしにできない。

ただ黙っていては状況は変わらないのです。失礼な店員の態度にふだんぐっと怒りを飲みこんでいるあなた、今日から「怒りの哲学」を実践してみては?

2014年7月4日金曜日

「意味」に満ちた世界から逃走し続ける大泥棒 ~桜井晴也『世界泥棒』



河出書房新社より刊行された、第50回文藝賞受賞作です。

のっけからナニですが、わたくし近ごろ小説からめっきり遠ざかってしまっておりまして・・・。しかもブンガクとなるとさらに敷居が高くなる一方。

えいやッと覚悟をかためて、この改行がほとんどない文章のかたまりにかじりつきました。ノー改行とはいえ、本来漢字で表記しそうなところでひらがなを多用してるので、それほど読みにくさはないです。

物語は夕暮れの教室で行なわれる少年たちの「決闘」から始まります。風変わりでちょっとグロテスク。それはこの小説の持つテイストそのままです。

感情を失い老成してしまったような少年少女たちが残酷さと背中合わせのユーモアの中を漂い、ディスコミュニケーションや疎外感が作品世界を空気のように覆っています。社会問題となっている子どもたちの「いじめ」や社会を震撼させた酒鬼薔薇事件を連想させる部分もあります。

舞台はおそらく僕らの住む現実とは異なる世界なのでしょう。幽霊や怪物らしきものがいたり、国家が分断され戦争も起きてるようですが全体像は曖昧模糊としてよく分かりません。それこそぼんやりと夕闇につつまれたような世界観です。

話は決闘から町はずれの殺人事件、国境の向こうへの旅と脈絡ない感じで(失礼)展開していきます。唐突に主人公の回想になったり誰かの語る話になったり、ほとんど説明らしい説明もないまま時系列も行ったり来たりしているようです。

この小説の手法を真似ようとしても難しいでしょう。もはやワンアンドオンリー、作者以外の書き手には再現不能。まさに文藝賞受賞に値するオリジナリティです。作者は演劇に対する造詣が深いとのことですが、再現不能という点で演劇の一回性と本作『世界泥棒』はどこか共通しています。

作者はページの向こうから多くの“?”を投げかけてきます。分かりやすい本、分かりやすく意味が整理された文章に日ごろ慣れ親しんですっかりなまってしまった僕の感性は混沌の暗闇の海に投げ出され、必死にもがきながら新しい泳法を探す。そして少しずつ長い距離を泳ぐ力を獲得していくのです。

というわけで作品の核心を突いているとはとてもいえない印象評に終始してしまいましたが、感覚に訴えるタイプの本作を「批評」という意味重視の視点からとらえようとすることは矛盾しているし、たぶん作者も嫌がるでしょう。読み手には自らの持ち合わせる感性のみで判断してほしいと思っているはずです。

そうでしょう桜井さん? 遅ればせながら受賞おめでとうございます。また勉強会でお会いしたいですね。

2014年7月2日水曜日

駆け足でたどる都市と郊外の変貌 ~樋口忠彦著『郊外の風景・江戸から東京へ』(江戸東京ライブラリー)



江戸から明治維新、大正末の大震災を経て昭和初期にいたる時期の、郊外がスプロールしていく過程を、文学の古典や当時模索された都市政策の中に追った1冊(教育出版刊)。

まずは『江戸東京花暦』から当時の人々の生活を紹介。インターネットもTVもなかった江戸時代の人々には、月を眺めたり雪景色を観たりすることも立派に一つの娯楽だったんだな。春になればもちろん隅田川沿いでお花見したりして。まさに雪月花だ。

ここで東京の地形というやつが重要な意味をもってくる。お月見に適した場所というのは、月がのぼってくる東の方角に見晴らしの良い平坦な土地が広がっていてなおかつ小高い場所がよろしい。つまり上野のお山だとか、台地のへりに位置している湯島や日暮里らへんがお月見の名所になったというわけだ。

いまでは高いビルが林立してちょっと想像がつきにくいが、谷中あたりの小高い場所は眺望が開けてたんだなあ。東京という街を見る目が少し変わりそうだ。

雪や月や花を愛でた江戸時代の人々の暮らし。しかし人口増に伴いその風流さは市中からしだいに郊外へ追いやられていく。アメーバのように無軌道に膨張していく都市(=ベッドタウン)。幸田露伴は当時の東京の様子を目の当たりにし、「都会は都会らしく、郊外は郊外らしく、きっちりと隔てるべきだ」と提言したそうだ。大規模な都市開発も計画され、東京はその姿を大きく変貌させていく。

先の露伴はまた「誰しも都会に住みたい欲求と田舎に住みたい欲求を持っており、できればその両方を実現させたがっている」と大衆の欲望を喝破した。

それに付け加えさせてもらうなら、人々にはたんに自然への憧れだけじゃなく、「自分たちだけの家を持ちたい」ってのもあったんじゃないだろうか。

ちょっと天の邪鬼的な見方だが、郊外に移り住んだ人々はけして自然の中で脱文明の生活をしたかったわけじゃない。だからこそ新たな地にも都会と同等の利便さや娯楽をもとめたわけで。

さらに時代を下れば、戦後の東京には地方から大量の集団就職者が流入した。彼らが故郷と大家族を捨て都会をめざした背景には、地方の貧しさだけでなく、かつてのムラ社会の封建的な家父長制への嫌悪もあったろう。

都会に上京した人々は、仕事が軌道に乗り家族を持つと、故郷に戻ることはなくふたたび郊外に家を買い、ここに都市→郊外のサイクルは完成する。

くわえて「家族」を「消費者」としかみなしていない企業が、ニューファミリー(核家族)とやらの魅力をさかんにPRする。ここに未曾有の高度経済成長が始まった・・・。

江戸から東京へ。それは人々のマインドとライフスタイルが「風流」から「消費」へとシフトしていく過程でもあったのだろうか。

現代は少子高齢化を本格的に迎え、東京を取り巻く首都圏でも今後消滅する自治体が出てくるのではと懸念されている。むやみやたらと豊かさをもとめたしっぺ返しのような気もする・・・

2014年5月14日水曜日

ハードボイルドな店長はあなたの街の書店にも…伊達雅彦『傷だらけの店長』



 著者はいわゆるプロの文筆家ではない。某チェーン書店の店長をされていた方で、本書(新潮文庫刊)は本業の合間をぬって業界紙に連載したエッセイをまとめたもののようだ。

 まず印象に残るのが全編を貫く陰りを帯びた文章のトーンだ。多忙でろくに休みもとれない日常へのぼやきが続き、読者によっては「そんなにグチばかりこぼしてるんなら仕事やめちまえよ!」とツッコミを入れたくなる方もいるかもしれない。

 しかし一見後ろ向きな文章の底には、仕事に対する不満をカバーしてあり余る本への情熱が感じられ、個人的には不愉快な印象はそれほどなかった。

 おそらく著者の嗜好にハメットやチャンドラーなど欧米のハードボイルド小説的なものへの強い親和があるのではと思う。いやしい仕事にグチや皮肉を並べながらも、みずからの職務へのプライドは失わない、サエない私立探偵にも似たヒロイズムが本書の一連のエッセイにはさりげなくブレンドされているのだろう。

 とはいえ現実の生活はそれほど文学的なものでもない。本署で暴露された(そんな大げさなもんじゃないが)書店のウラ事情は生半可なプライドではやってられないほど深刻だ。売り上げのためには自分のポリシーも曲げねばならず、万引き犯に対し常軌を逸しているといってもいいほどの憎悪を隠さない心身ともに傷だらけの店長。精神も肉体も限界まで追いつめられ、家族や友人などプライベートな人間関係にも危機が及ぶ。

 そしてあろうことか、自分の店のすぐ近くに強豪のライバルチェーンが進出してきてしまうのだ。あまりにも非情な弱肉強食の資本主義論理。はたしてお店の運命は、そして店長自身の将来は・・・このあたりはぜひ本書を読んで確かめていただきたい。



 さて、痛烈な内部批判や業界体質への問題提起も辞さない本書の著者・伊達雅彦氏はもちろん(といっていいかどうか)世をしのぶ仮の名である。

 最近フェイスブックなどSNSが一般的になるにつれ、ネット上で実名を明らかにするかどうかが問題となりつつある。

 やはり個人情報流出の不安もあるし、僕自身は偽名や匿名については容認する派であるが、「匿名で社会や他人を攻撃するなんて卑怯だ、堂々と実名でやれ!」という声もあり、なるほどもっともだと思ったりもする。

 人によってさまざまな意見があり、僕自身にもまだ結論が出ない問題であるが、こうは考えられないだろうか。

 匿名の伊達雅彦氏は近所のA書店の人かもしれず、隣り町のB書店で働いている可能性もあり、つまりあらゆる書店に偏在する書店員代表のような存在ともいえる。

 僕らは書店に入って、そこのスタッフの方々と接するたび、「この人たちも伊達氏本人ではないにしろ、同じような思いを抱きながら働いているんだろうなあ」と頭の片隅で想像せざるをえなくなる。目の前にいる無名の店員はいわば伊達氏の現し身、同じ人格を共有する存在となる。顔のない一書店員ではなくなるのだ。

 名を秘することで無名の一個人が普遍的な影響力を持つという逆説も成り立ってしまう。これも匿名の効用かとも思うが、だからこそ実名を隠してのバッシングや誹謗中傷は控えたいもんですよね。