2013年9月5日木曜日

セーシュンは人生の夏休みだ! 〜高島俊男『漱石の夏やすみ』



いやー、終わりましたね夏。

子どもの頃は長ーい夏休みが楽しみでしたが、大人になってしまうとせいぜい一週間程度のお盆休みをとるくらい。

しかも僕などは殺人的暑さにおそれをなしてほとんどどこへも出かけず、冷房の効いた部屋にこもりっぱなしでした。

去りゆく夏を惜しみながら今回取り上げたのは高島俊男『漱石の夏やすみ』(ちくま文庫)です。

文豪夏目漱石が23歳の学生時代の夏に学友らと房総方面を旅した体験をつづった「木屑録」。

原典は漢文で書かれていますが、著者高島氏はこれを分かりやすく現代語訳、そして詳細な解説をつけています。

この「木屑録」は漱石が親友であった正岡子規にあてて書いたものとされています。旅先でものした詩や軽妙な文章を、同じ文学をこころざす子規に披露する様子に二人の友情が感じられ、微笑ましくなります。

また旅の空で浮かれ騒ぐ友人たちの輪から少し離れ「文学とは、人生とは」と思索にふける自らの姿も漱石は木屑録に書き残しています。やや誇張気味な感じもありますが、若き日の漱石青年、日常を離れた旅先で少しおセンチになっているようです。異郷の情景を詠んだ自作の詩も青くささがプンプン。いやー若いっていいなー。

「オレは文学を追究しなければならないのに、こんなところで無為に過ごしていていいのだろうか・・・?」そんな焦りが随所に顔を出し、理想に燃える若者ならではという感じです。

著者高島氏は「木屑録」を解題しながら、既成の漢文解釈に疑問も投げかけており、漱石からやや離れますが漢文全般に対する興味深い論評ともなっています。

たしかに高校で習った漢文て堅苦しくてとっつきにくいイメージがありましたもんね。高島氏はこれをもっとくだけた表現にしてみてはと提言しています。

若き日の漱石が残した習作「木屑録」には、軽妙さを装いながらも真剣に悩む若者の姿がかいま見えます。それは時代を隔てたいまも同じでしょう。

社会に出るまぎわの二十歳前後の頃というのは、その後の山あり谷ありの人生を前にした、夏休みにあたる時期なのかもしれません。ついダラダラ過ごしてしまう夏休みと同じように、若かった頃は無駄に送ってしまったと僕らは後悔してしまいがちですが、その膨大なムダの中にその後の人生で役に立つものが何かしらあるのではないか・・・そう思いたいもんです。

2013年7月10日水曜日

フューチャリストの夢見た未来に僕らは立っているのか? 〜梅田望夫/茂木健一郎『フューチャリスト宣言』(ちくま新書)



 米国シリコンバレーでコンピューター、ネット業界の人々と関わった経験をもとに『ウェブ進化論』などのベストセラーを生んだ梅田望夫氏。かたや「クオリア」という概念を提唱し、脳科学の未知の分野へ挑みつつテレビなどでもおなじみの顔になっている茂木健一郎氏。両者がそれぞれのジャンルの知識や動向をもとに語り合った1冊をご紹介。

 いつものように最新の流行など無視して気の向くまま手にとって読んでおり、本書も2007年刊行のもの。内容からするとユーチューブに注目が集まっていた頃、ソーシャルネットはmixiが一人勝ち状態、ツィッターやフェイスブックはも少しあとみたいな時期かと思われる。移り変わりの激しいコンピュータやネットの世界ではすでに近過去のトピックに属するだろう。でも最新でないからといってけして本書に価値がないこともない。当時を振り返るだけでもなんとなく世の中の変化が実感できてそれはそれで面白いのではないかと。

 自らの学問に対する態度の変化を「アインシュタインからダーウィンへ」と表現し、一つの場所にとどまらずあらゆるものを取り入れることで新しい「知」を模索する茂木氏。欧米の大学には卒業してから就職までに空白の時期を設け、学生たちがそれぞれ好きなことに打ち込む「ギャップ・イヤーズ」という習慣があるが、わが国ではそうした期間はなかなか認められないのが普通だ。茂木氏の言葉にはそういう硬直した学校教育への苛立ちが感じられる。

 プログラムの世界で一流となる人は、プログラミングが好きで好きで仕方なくて朝から晩までそれを続けていると言う。好きなことを徹底的につきつめることで飛躍していく。まさに好きこそ物の上手なれ。ところが日本の教育はそれと正反対なことを強いている。これでは優れた人材が育つはずはない。個性を大切にとかいいながら真逆のことをやっている日本の教育制度。反面、自分の好きなことに打ち込んでいる梅田、茂木の両氏はそれがハードなスケジュールの毎日になってしまったとしても苦にならないのだろう。

 本書の刊行から5年あまりが過ぎた。はたして現在の状況はどうか。閲覧が中心だった1.0からツールとして役立てる2.0へ。SNSも定着し、ユースト放送、ニコ動などでネットはさらに個人の持つメディアとして強力な武器となった。
 とはいえネットの世界は希望に満ちあふれているだけではない。やはりその背後に生身の人間がいるわけだから、心の闇、ダークサイドももろに露呈されるわけで、ネットが原因となる社会問題、事件も限りない。一連の著作でウェブを手放しに肯定していた梅田氏もその後「日本のウェブは残念」発言をするなど、ネットへの失望をあらわにしている部分もある。
 非はネットにあるわけではない。使う側の僕らに問題があるのではないだろうか。もしいま未来へのヴィジョンを失って混迷の中にあるとしたら本書を読んでもう一度、インターネットに対し抱いていたキラキラした希望を取り戻したい。

2013年6月23日日曜日

バック・トゥ・ルーツ、全作ツィートするぞ!星新一 〜『かぼちゃの馬車』(新潮文庫)

 ツィッター上で「星新一1001夜」という企画? を始めた。氏の1000編を超えるショートショートを一編ずつ要約してツィートしていくという試みだ。

 はじめはアラビアンナイトにならい、毎晩一編ずつ上げていく予定だったがズボラな性格のため不定期ツィートになってしまっている。夜間限定という時間の制約もあるし。

 手元に新潮文庫版のショートショート集が5、6冊あり、まずはその中の『かぼちゃの馬車』から始め、ようやく1冊終えるところだ。




 要約といっても、なんせ小学生のころ読んだきりなので内容はほとんど忘れており、あらたにまた再読しなければならない。とっくに卒業したつもりの星新一ショートショートをこのトシで読み返してるわけだ。

 実はツィッターで星作品の紹介を始めようと思い立ったのも、どちらかといえばこの再読がメインな目的だったわけで、
 人生も後半戦に入りもう一度自分のルーツを確かめてみたい思いがこのところ強くなってるというのが本音のところだ。思いっきり後ろ向きだな、オレ。


 僕の読書ルーツは星新一に限ったわけではなく、それより以前から江戸川乱歩の少年探偵団シリーズ(ポプラ社の、背表紙にトランシーバー片手の少年がいる、あれです)や子供向けに易しい文章に訳されたホームズ、ルパンものなんかも読んでた。いわゆる古典文学の名作は敬遠してたけど。

 そういった一連の当時の愛読書の中でもやっぱり星新一を筆頭にあげてしまうのは、
やはり彼のショートショートが本読みビギナーの少年少女には非常に良好な入門的役割を果たしていると思えるからだ。

 ファンタジックなストーリーに簡潔な文章、意外なオチ、そして読んでたときは気づかなかったけど、その内容の健全さも作者がジュニア世代を意識して書いてたとしか思えないフシがある。


 というわけで自分の読書歴の筆頭にもどうしても星氏の名があがってしまうことが多いのだが、
膨大な星氏の作品のうち僕が読んでるのはその半分にも満たないだろう。

 僕が星ショートショートにハマってた時期はちょうど新潮社から全10巻の星新一の作品集というのが出てた。
 その後もリアルタイムで星氏は執筆を続けており、僕がとっくに星ショートショートを卒業した頃に1000編という大記録は達成された。

 そのニュースを耳にしたとき、ぼんやり子供の頃を思い出し、あの頃のように無心に物語を楽しむことはもうないかなあなどと思った。二十歳ぐらいの頃だったかな。


 星氏の作品は子供だましだとか人間が描けていない、みたいな筋違いの批判も多かった。
ショートショートという形式上、簡単に書けそうな誤解を受けたり産みの努力のわりに報酬的に恵まれなかったりとか。

最近読んだ最相葉月『星新一 1001話をつくった人』にはそのへんもじっくり書かれており、あのころ面白おかしく読んでいた星作品の陰にこんな苦労があったのかと、あらためてその偉業を再確認する思いだ。

 もう一度本を読む楽しさを思い出すために(べつにいまも十分楽しいのですが)あらためて紐解く星作品。
 短いので再読にも好都合。並行しながら未読のものにも手をつけていきたい。どこまでやれるか星作品の再読&要約。人生後半のライフワークにしていきたいもんです。

2013年6月11日火曜日

文芸誌? それとも音楽誌? 〜「パピルス」と「月カド」



久しぶりに新刊書店をのぞいたら、幻冬舎が出している「パピルス」が大幅にモデルチェンジしていたのでびっくりした。知らなかったのは僕だけでみなさんとっくにご存知だったのかもしれないが。

「ゆず」の二人を特集しているが、判型が普通の文芸誌サイズになり、表紙もずいぶん地味な感じになって、それまでと同じ雑誌とは思えないくらいだ。

「パピルス」ってあまり中身を読んだことないのですが、ジャンル的には文芸誌でしたよね。にも関わらず毎号、有名アーティストや俳優を取り上げている。

これってその昔の「月刊カドカワ」と同じ路線だなと遅まきながら気がついた。

「月刊カドカワ」は僕の記憶でははじめ純然たる文芸誌としてスタートしたものの、何かの折りにアーティストを取り上げたら売れ行きがよかったらしく、

その後は毎号「総力特集」と銘打って一組のアーティストに徹底的にこだわるスタイルになったようだ(ちがってたらすいません)。

活字が好きな層と、音楽が好きな層って微妙に重なるんでしょうか。どちらも表現という意味合いでは同じなのかも知れません。事実、僕が見た新刊書店では「パピルス」も、また「月カド」の後継者的存在である「別冊カドカワ」(特集は矢沢永吉)も音楽誌のコーナーに並んでました。

「純然たる文芸誌」時代の「月カド」は僕もよく知らないのですが、アーティスト総力特集の頃は毎月のように図書館で借りてました(買わなくて失礼)。

当時は1990年代。カラオケブームからJポップへ移行する時期だったでしょうか。厳密には違うかもしれませんが、僕が熱心に読んでたのはそのあたりです。

毎号、本人によるエッセイ風文章やカバーストーリー、ディスコグラフィー等でひとりのアーティストにあらゆる角度から迫り、とても充実した内容だったと思います。

ここから尾崎豊の一連の著作をはじめ、話題になったアーティスト本が次々に誕生しています。

アーティスト側にとっても「月カド」に取り上げられたということは創造性の高さを認められたも同然で、かなりのブランドアップにつながったようです。

当時、「月カド」の編集者として尾崎豊らの「文才」を発掘したのが、いまの幻冬舎社長見城徹氏。「パピルス」が「月カド」の流れをくんでいたとしても不思議ではありません。

まあ、僕が感じた「月カド」の功罪をひとつあげるとするなら

本来書くことはアマチュアといってもいいアーティストやミュージシャンに(文章力という意味ではありません)、プロ同等の執筆の場を与えたことで、その後のインターネット上における個人のホームページやブログの隆盛ともあいまって、文芸のアマチュアリズム化に拍車をかけたのではないかという点ではないかという気がします。アマチュアの身で、エラそうにすいません。

「総力特集」だけでなく、通常の連載ページもなかなか興味深い執筆陣を集めていた「月刊カドカワ」。古書店で全巻揃えたら90年代のJポップをはじめとしたサブカルチャー史の貴重な記録となるでしょう。幾らぐらいするんだろうなー。いや、集めないけど。一冊、また一冊と地道に探していくのも楽しいかもしれませんね。

「パピルス」の話で始めたのに昔の「月カド」の思い出で終始してしまいました。ヤングの方にはすいません。

2013年6月9日日曜日

たまには愛について真剣に考えよう 〜福田恒存『私の恋愛教室』(ちくま文庫)





近頃多いものに幼児虐待があります。「いったい子どもを愛していないのか!」と怒りを感じる方も多いでしょう。いまの世の中狂ってる、と。

だけどこれは現代社会の病理なんかじゃない可能性もある。そもそも「親の愛」ってほんとに存在するんだろうか。

「愛」なんて観念は西洋から輸入されたもの。もともと日本にはなかったものだとはよく聞く話だ。本書でも著者の福田恆存がそう指摘している。

なるほど。だから貧しい寒村では平気で(平気じゃないかもしれないけど)生まれたばかりの赤ん坊を間引きしたりしてたのか。そんな結論はちょっと乱暴かもしれないが。

文明開化とともに「愛」が西洋から運び込まれた明治時代、それまではおおらかに「野合」を楽しんだり、村の若者が人妻に「夜ばい」をかけたり、はたまた「妾」を囲って自分の甲斐性を誇ったり、好き放題やっていた日本人は、「愛」という新奇な観念をどう取り扱えばいいか頭を悩ませることになった。

海の向こうから「愛」がやってきたおかげで男女関係はややこしくなり、鴎外や露伴、北村透谷らの文学の主要なテーマともなった。本書でも精神的な恋愛がどういうものか分からない当時の日本人の恋愛観を皮肉った二葉亭四迷の作品の一節が紹介される。

その滑稽な恋愛模様を読むと「しょせん僕ら日本人は恋愛になんか向いてなかったってわけだ、肉体的にも精神的にも」とヒクツになってしまいます。

まあ最近では若者たちのルックスもよくなり、社会のモラルもゆるんで昔の僕らより恋愛のハードルが低くなったみたいだ。だからって「いい恋愛」ができるかどうかはまた別問題だと思うんだけど。

またD.H.ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』は、翻訳された当初わいせつか否かで裁判沙汰にまでなったが、原作者の本当の意図は性の解放などではなく、むしろその反対だったと著者は言っている。実はロレンスは性的規範については非常に厳しかったのだと。そのくだりを読んで思わず自分の少年時代の体験を思い出した。

当時、見知らぬ土地へ引っ越してきた僕は、地元の子どもたちの仲間に加わるとき、エッチな話題をするとやたらウケがいいことに気づいた。

それからは皆に溶け込もうと意識的にシモネタばかり披露するようになってしまい、みんなのあいだで僕は病的なエロ大好き人間という評判がたってしまった。ご、誤解だあっっと今でもたまに叫びたくなる。

そんな自分がいま気になるのは、エロ男爵の異名で有名な某男優だ。彼は本当にエロ好きなのか、それともエロ好きイメージで人気が出たために不本意ながらそれをキープし続けているのではないかと・・・

なんだか話があちこちとんでしまったな。それだけ愛とは深くて広いテーマなのかもしれません。

というわけで愛について教えを乞いたければ本書『私の恋愛教室』を。もともと女性獄舎を意識しているのか文体もやさしいです。なにぶん昔の本なので(元版は1959年発行)著者の考え方もやや保守的な部分がないではないですが、若い女性の身を気遣うデリカシーが感じられてこれもなかなかいいもんです・・・。

2013年3月24日日曜日

ただのノスタルジーじゃあらへんで! 〜重松清『あの歌がきこえる』(新潮文庫)




70年代末から80年代初頭にかけて、本州の西のはじの小さな町で成長していく少年たちを主人公にした連作長篇です。

中心となるシュウ、ヤスオ、コウジの友情はもちろん、親や教師との確執、ほのかな恋心、そしてこの時期の少年たちには最大の過大かもしれない受験や進学をテーマにした、実にまっとうなビルドゥング・ストーリーです。



それこそ似たような話は古今東西いくらでも書かれており、目新しくもないと言われればそれまでなんですけど、そこは重松氏ならではの小道具づかいのうまさで、この連作は各エピソードが表題となっている当時のヒット曲を軸に展開していきます。

フォーク、ロック、歌謡曲、ニューミュージック・・・。昔の流行アイテムを素材に使うだけなら単なる懐かしネタで終わってしまうところですが、やはり音楽というやつはティーンエイジャーの生活になくてはならない存在でして、『あの歌がきこえる』ではそれらの曲が物語を進める重要なカギになってます。のみならずリアルタイムで聴いていた人々の心情もきっちりと書き込まれ、ただのレトロ扱いになってません。



各エピソードにも当時を生きていた人でなければ理解できないような心情が見事に織り込まれています。

まあざっくりと言ってしまえば、70~80年代頃の地方都市というのは退屈で人間関係がわずらわしくて、そこに残り続けることは自分の可能性を捨てることを意味していた。何かやりたい若者は誰でも東京へ行きたがった。地方と東京との(精神的な)距離は、いまよりずっと遠かったものです。

『あの歌が聴こえる』の背景となっているのは大学に進んで何もない生まれ故郷の町を出て行くか、進学しないで地元に残り続けるかという人生コースの図式がよくもわるくもきっちり存在していた時代。その図式を破壊したのは自分のような、学校出てもストレートに就職しなかった(できなかった)人間たちかもしれませんけど。当時はモラトリアムとか呼ばれてたっけ。いまじゃそれもわりと当たり前ですけどね。

東京が新しい刺激的なものをあまり生み出せなくなって、地方にもファミレスやショッッピングモールでまったり過ごすライフスタイルが定着して、若者たちも無理して都会へ出て行こうとしなくなった。ここよりほかに素晴らしい場所があるという幻想は次第に失われてきた印象があります。



社会学者・宮台真司氏も指摘するようにかつてのテレクラブームにより「近場」で男女が出会うことがわりと容易になったり、埼玉の某町に「ナンパ族」なるものが出没したりした時期が転換点だったように思う。ナンパ族も最初はけっこうバカにされてたんですけどね、「都会へ出たくても出られない奴ら」と。

ネットの登場で「郊外化」はさらに加速するんだけど、それはさらにあとの話。重松清の『あの歌がきこえる』からはそんな時代の大きな変化が押し寄せる前の「あのころ」が伝わってきます。

2013年2月25日月曜日

WEB上のバカや暇人はいまも順調に退化中? 〜中川淳一郎『今、ウェブは退化中ですが、何か?』(講談社)

ニコラス・G・カー『ネット・バカ』に続き、またもインターネット批判本を読む。
『ウェブはバカと暇人のもの』(光文社新書)が話題をよんだ著者の、その続編ともいえる本。
前述の「ネット・バカ」といい、どれもみなネット信奉者の神経を実に上手に逆撫でするタイトルばかり。逆にそれが思わず手にとる気にさせるテクニックなのかもね。

ネットニュース編集者の著者が情報を発信する側でありながら、個人的にはツィッターやSNSに一切手を出さず、トラブルを避けるため自分の情報はけしてネットにあげようとしないというのも皮肉な話だ。
それだけ日本のネット民度は低いのだといえる。その低レベル具合は本書にもあるように『WEB進化論』などでネット社会の明るい未来を希望をこめて語った梅田望夫氏が「日本のウェブは残念」発言をしてしまったくらいだ。

またネット事情に詳しい立場から「2ちゃんねる」への悪評を行き過ぎたものと擁護し、逆に紹介制だから安心とされているSNSの危険性にも言及している。まあこの著者にしてもネットリテラシーが低い人間への差別意識は見え隠れしてて、ネットなんてたいしたもんじゃないと言いきってしまうことが逆に最上級のネット選民であることを証明してる感じはあるけど。

さらに著者は、ネットに対して人々が抱きがちな過大な期待感を指摘する。たしかに僕らはなぜこんなにも「ネットを使えばいいことが起きる」と思い込んでしまうのだろう。非常に素朴な疑問ではあるが。
答えはおおよそ見当がつく。ネットでひと儲けできます、友人知人がたくさんできますと過剰なPRがはびこっているからで、「ウェブ2.0」や「クラウドコンピューティング」など分かったような分からないような新語を連発してITや広告業界の連中が煽ってるのはもはや明白だ。
PCやネットなんてただの道具。ネットで成功するのははじめから才能や素質があった人。もともとダメな人はネットに頼ってもダメという身もフタもない結論になりそうだ。

自分は何のためにアクセスもほとんど集まらず、金銭的利益があるわけでもないブログ書きなんかを続けているのだろう。本書を読みながら何度も自問自答させられた。
著者にいわせれば自分は「ウェブ上で評論家ぶりたい人間」の範疇にはいってしまうのだろうか。本書にはネットに書き込みをする人間が幾種類かタイプ分けされていて、読書録を書くのはリア充タイプとなっているが、オレはけしてリア充というわけではないし・・・
たしかにHPやブログを始めた当初は、ネットを通じて書く仕事につながればなどとバカな期待を抱いたりもしたが、その種の絵空事はほとんど起きなかった。多少あったにしてもあまりいい結果にはならなかった。ただ書くことは好きなので今後もこつこつと書き続けてはいくでしょうけど。
「だったらネットに書かなくてもいいじゃん」というツッコミが聞こえそうだ。実際、旧来の紙メディアに戻ろうかなんて時代逆行的な動きも自分の中にある。ほとんど未知数のマスに向けてではなく、確実に目指す相手に伝わる方法へとシフトし始めている。

自分のことはおいといて本書の話に戻ります。

「ほんとうにたいせつな人も仕事も人生もネットにはない」と著者は言い切っている。
FBなどの実名SNSが一般化して事情はだいぶ変わってきたが、PC画面の向こうの顔も素性もわからない相手よりは自分の身のまわりの人間関係を大切にしようというしごくまっとうなアドバイスは現時点でもきっと有効だ。
バカと暇人のウェブは今も退化中。そう嘆く著者は、骨がらみでネットに関わったあげくもはや「解脱」の境地に行き着いてしまったのでしょう。著者が本書の出版に至った経緯もネット経由ではなくリアルな人間関係を通してのものだそうだ。
そうかリア充だったのか。だったらムリしてウェブ上に自分をさらけ出す必要もないのかもな・・・



2013年2月13日水曜日

新しいメディア、さあどうする…30年前みんなが頭を悩ませた 〜中本正勝他編著『情報で町づくり』

図書館で地域活性に関する本を探していたらまさにぴったりのタイトルの本が見つかり、借りてきて読んでみたら80年代後半に出版された本でした。30年近く前かよ・・・。

当時の社会のIT化(そのころはマルチメディア化といった)への取り組みの実例が本書には列挙されているが、会議に会議を重ねた末、出てきた結論は商品の流通VANだとか、駐車場案内システム、CATVなどが精一杯というところだったようだ。いや、あの頃はそれでも大革命だったんだろうけど。牧歌的な時代でしたねえ。

本文中、コンピューターをどう使うかについて識者が語るコメントには、いわゆるオカミからの標語みたいな大層なフレーズは頻出するのだが、具体的に何をどうしたいというところはほとんど出てこない。新しいものにうとい一般庶民はそれを聞かされてもますますそっち方面には興味をなくすんじゃないかみたいな・・・。

マルチメディアという言葉が出てきたということは逆にいえばそれまでの社会は単一のメディアによって動かされていたわけで、情報は新聞・テレビのような大企業、権力側から一方通行に流されるものとされていた。そんな状況ではコンピューター利用についての発想の貧弱さはまあ仕方ないところでしょう。いきなりコンピューター回線でエロ画像を流そうなどと考える人もごくわずかでしょうし。

マルチメディアの新たな利用法が開発されるには。その後のインターネット隆盛などによる世の中の変化を待たなければならなかったわけです。僕が見てきた感じでは、その変化、つまり「面白い使い道」は、お役所主導というよりも、ネット上の名もなき2ちゃんねらーやユーチューブ、ツィッター、SNSのメンバーたちが作っていった印象が強い。

この本はC&C文庫の一冊、発行はNEC日本電気文化センターになっている。当時はパソコンメーカーが出版業に乗り出すほどコンピューターの分野は急成長分野だったことがうかがえる。

ちなみにC&Cとは「コンピューター&コミュニケーション」を意味する頭文字。たしかNECの社内報タイトルにも使われていたはずだ。当時僕はこの社内報づくりに関わっていたことがあったが、制作にはDTPなんかいっさい使わず、下請けの印刷会社が活字を切ったり貼ったりの原始的な方法でつくっていました。ま、パソコンで世の中が変わると大合唱してたわりに実際はそんなものでした。

情報で町づくり (C&C文庫)

2013年2月6日水曜日

ネットはわたしたちをおバカにしている!? 〜ニコラス・G・カー『ネット・バカ』

本書の著者はパソコン・ネットをその黎明期から使い続けてきた。機械の計算力や記憶能力が進歩していきインターネットが登場、ブログやSNSなどさまざまなサービスの開始などをリアルタイムで経験した世代だ。

PCの進化をたどりながら、著者のなかでは納得のいかない思いが育っていく。しだいに長い文章を読むのが面倒になり、1冊の本も読み通せなくなっていく自分に気づいたのだ。著者は自分の脳が高速データ処理機械となってしまい「以前の脳が恋しくなった」と本書の中で嘆く。

うーん、たしかに僕も本ぐらいは読み通せるけど、ネット上だと長めの文章は敬遠してしまうのが事実だ。それは莫大な情報の海を泳ぎ抜くためのやむをえない手段でもあったのだが、検索のスピード化で瞬時に答が見つかったり、リンクによって次々にサイトをたどっていくネットサーフィンなどで、脳の構造にもちょっとした変化が起きてるのかもしれない。やたら気が短くなったとか、すべてにおいてせっかちになったとか。

ネットが広まって以降に生まれた世代は、ひとつの文章をはじめから順を追って読み進めるのではなく、ページ全体をスキャンするように見わたして重要な単語だけ拾い上げていくのだそうだ。それって読書か? と思ったりもするけど、ある意味速読法に通じるかも。読み方が変わるだけではない。「本」というモノの形態が変わることは「内容の変化」も誘発するという。著者は一例として日本のケータイ小説隆盛にもふれている。つまり軽い内容になるってことか?

とまあ、ネットが僕たちの思考を変えたとはよく言われることだがよい方向にばかりとは限らない。人類全体が気まぐれで思考散漫になり、思考能力が衰えつつあるのかもしれない。

ネット検索中の人の脳の活動を測定するなど科学的手法でも、この仮説は検証される。同一の内容で直線的なテクストを読んだ人、さまざまな単語にリンクのついたハイパーテクストを読んだ人それぞれの理解度を比較した実験では「ひんぱんな思考中断は思考を断片化し記憶力を弱める」と結論された。う〜ん・・・

本書はまた人類の文明史にもページを割いている。言語や文字、地図や時計といった「精神の道具」の登場は文明の進化に大きく貢献した反面、それらに頼ることで失われたものもある。まさに諸刃の刃だ。ネットやPCもまた同じような役割を果たしつつあるのかもしれない。

著者はけしてこうした変化を批判しているわけではなく、避けられない時代の流れなのだとくどいほど文中で繰り返している。今はまだそのスピードや情報量についていけないが、人間はやがて「より機敏にデータを消費する存在」へと”進化”していくのかもしれない。それはそれでいいことだろうけど、著者の口調にやや悲観的ムードが漂うのはこちらの思い過ごしだろうか。

『ネット・バカ』・・・タイトルだけみると、ネット社会をやゆしただけのキワもの本かと思いかねないが、そこそこ学術的な面も併せ持つ一冊だ。本書を読んでからネット接続を少し控えるようになった小心者の僕だが、100%情報遮断してしまうわけにもいかない。要はネットと活字とのバランスをとることが大事なのかな・・・。