2015年8月18日火曜日

名文ってなんだ?  斎藤美奈子『文章読本さん江』(ちくま文庫)



 

 とあるライター養成講座に参加して、課題として何冊か文章術について書かれた本を読んだ。 

今回取り上げる斎藤美奈子『文章読本さん江』もそのときに読んだ1冊。しかし文章術を書いたというより、文章術について書いた本、いわゆる“文章読本”を比較検討、批評してしまおうという趣向の1冊だ。メタ表現わかりづらくてすまん。 

 これまで綿々と刊行されてきた文章読本の歴史を時代をさかのぼってざっくりまとめ、文章指南の「党派」を明快にジャンル分けした本書を読むと、それぞれの著者によって「よい文章」の見解がちがい、おのれの正しさを主張しあっている構造が明らかになる。 

 ときに真っ向から180度対立し、時代や社会背景にも大きく左右される「文章読本業界」の事情を、著者が毒舌芸を駆使しながら「名文」とはなにか、模索する。


さて、仕事や個人ブログで文章を書いてる身にいちばん興味深かったのは『パブリックな文章にはれっきとした階級制度が存在する』という著者の結論。

 要するに文章の世界は巨大な階級ピラミッドをなしていて、その最上部に位置するのがいわゆる「名文」をものする(おもに純文学系の)小説家、その下にジャーナリストや記者など職業的に文章を書く人たち(記者の中でも新聞と雑誌のそれではあきらかに前者のほうが上ということになってるようだ)。さらにその下層に存在するのが新聞の読者投稿や小中学生の作文といった無名の素人の書いたもの、という差別的な構造があるらしいのだ。

 文章指南本のほとんどはよい例、または悪い例として多くのサンプル文をあちこちから引用している。この引用の基準、つまり何を引っ張ってくるかにも微妙な階級意識が見え隠れしていると斎藤美奈子氏は指摘する。

 
 「よい例」とされるのは名前を言えばだれでも知っているような一流作家やジャーナリストの文章。対して「悪い例」に挙げられるのは、たいていが無名の素人さんの文章だ。まあ同じ業界でメシを食ってる以上、面と向かって同業者を攻撃できないオトナの事情もあるだろうが。そういう引用された文のもつ権威、バリューが引用した側の文章指南本の質を担保するという逆転現象も本書では説き明かしている。

  この場合、文章のバリューというのはあくまでもネームバリューであり商品としての価値であり、けしてクオリティではないことにも留意すべきでしょう。なんか名文の「血統」ができてて、血筋のよくないものはいくら能力があっても排除されてしまうみたいな。あとに続く無名の文章読本たちはその血統に連なろうと「名文」の引用を繰り返すのです。


 ところで、プロアマ問わずエッセイなどでよくありがちなのが、文の始まりに不特定多数の読み手に向かって「みなさん、いかがお過ごしでしょうか」といった挨拶めいた文句をいれたり、最後に「いかがでしたでしょうか」などとまとめっぽいフレーズで締めくくるパターン。

 僕が受けていたライター養成講座ではこういった読者への呼びかけは禁止、みたいなことをさんざん講師に言われた。

 たしかに「いかがでしたか」なんてのはお決まりっちゃお決まりの紋切り型でほとんど意味のないフレーズだ。でも公に出版されているエッセイやハウツー本には、そうした読み手への呼びかけ口調はざらに存在する。

 じゃ、なぜそれが禁じられているのか個人的につらつら理由を考えてみたのだが、

 つまり、読者に向かって語りかけるなんていうのは有名作家やエッセイストなど知名度のある人だけに許されることであって、たかが一般人かそれに毛が生えたような無名ライターが読み手に話しかけたりしてはならない。

  文章を書く人々の集まりがピラミッド型の階級社会を形成しているとしたら、下々の大衆に語りかける権利をお持ちでいらっしゃるのはそのなかでもとくに高い場所におわせられる高貴なお方だけなのだ。シロート同然のライターが大作家の真似なんぞすれば100年早いわい!と叩きまくられるだろう。 

 ありがたい文章術を伝授しようと上から目線の先生、ははーっとひれ伏して学びを乞う生徒。ここにも同じピラミッド構造が存在する。つづり方の授業は子供たちをマインドコントロールし、少し賢い子は大人が気に入りそうな内容の文を書くテクニックばかり身につけてゆく……。


 ライター講座では本田勝一『日本語の作文技術』も課題として目を通した。それなりに参考になるなーと思いつつ目をとおし、次に『文章読本さん江』を読んでみると、今度はその本田勝一本がやんわりと揶揄の対象となっているではないか。う~ん、まったく何を信じていいのかわからない。

  それならいっそ自分の好きなように書いてしまったらいいじゃないか。「名文」の基準なんか読む人次第。いっそ既成の権威なんか破壊してしまおう。

  と思いつつ、やっぱり文章ピラミッドを少しでも這い上がろうともがき続けてるしがない三流ライターでありましたとさ。


 

2015年8月10日月曜日

ひさしぶりのガイブン。 ~アゴタ・クリストフ『悪童日記』(ハヤカワ文庫)

 もう半年近く前になるでしょうか。とあるライター養成講座の課題で読みました。なにをいまさらな感じですが記録としておきます↓


 まず、主人公の少年たちをあずかるおばあちゃんのキャラで話に引き込まれる。イメージでいえば長谷川町子のいじわるばあさんか『千と千尋の神隠し』で千尋をこき使う湯婆婆という感じか。
 戦火のもと親元を離れて田舎へ疎開、厳しい環境に耐えたくましく生きてゆく…NHK朝の連ドラが好みそうな題材だが、日本ならいかにもウェットな話になりそうなところを本作品は短い断章を重ね、映画にたとえるならバラバラのシーンを無造作につないだような形式を採用、慎重に情感を排している。内面描写を抑え風景や物ひとつひとつを具体的に描いた文章も映像化に向いている。
 それぞれの断章は残酷でありどこかユーモラスでもある。孤独、貧困、異常性欲。戦時下という極限状況にいる人間のありのままの姿が主人公たちの視線を通し暴き出される。
 タフな世界へ投げ込まれた少年公たちはけして不幸な身を嘆き悲しんだりしない。「痛み、暑さ、寒さ、ひもじさといったあらゆる苦痛」に耐える修練を重ね、肉体と精神を鍛え独学で知力を身につけていく。
 愚劣な大人たちを手玉に取りしたたかに生き抜いていく様子はアンファン・テリブル、小さなモンスターだ。やわらかい心を捨てなければならなかった彼らはつぶやく。「ぼくらは絶対に泣かないんだ」
 そんな彼らのぶっきらぼうな語り口にも時おり母への思いが顔をのぞかせる。母から送られてきたお金で長靴を買いに行く場面で最後にさりげなく「母親の手紙はシャツの内側に忍ばせた」と付け加えたり、逃亡する父親の身元が割れないよう所持品を焼きながら母の写真だけは残しておくあたり、押しつけでない情感が迫ってくる。
 このように『悪童日記』はけして内面をないがしろにした即物的な記述ばかりの小説ではない。多くは語らないが抑制された感情が物語の背後からにじみ出ている。短い断章の多くでは、最後の一文が幕切れとして非常に効果をあげている。それはときに冷酷だったりもするのだが。
 万引き、恐喝、そして殺人とエスカレートしていく少年たちの行為に「子どもは純真なもの」と当たり前のようにいう人々はショックを受けるかもしれない。これははたして「戦争の狂気」によるものか、もともと子どもが持つ純粋な残酷さなのか。場所や年代をあえて特定しない寓話性は、酒鬼薔薇事件をはじめ多くの少年犯罪が大人をおびやかせている現代の日本にも通じるだろう。双子はエディプス的解釈そのままに父親を殺し、文字通りその死骸を乗り越えていく。
 この物語の主人公、一人でもじゅうぶん成立しそうなのに、作者はなぜわざわざ双子にしたのだろう? 読み進めながらそんな疑問がずっと頭の隅でもやもやしていたが、ラストの一行でなんとなく結論が浮かんだ。
 国境のこちらと向こうへ別れた双子、彼らはきっとその後長く対立が続いた西側世界と東側世界の象徴だったにちがいない。



 ↑外文を読むのも久しぶりだった。講座へ参加していなければなかなか読む機会がなかったわけで、それだけでも参加した意義はあったかな。