2014年7月4日金曜日

「意味」に満ちた世界から逃走し続ける大泥棒 ~桜井晴也『世界泥棒』



河出書房新社より刊行された、第50回文藝賞受賞作です。

のっけからナニですが、わたくし近ごろ小説からめっきり遠ざかってしまっておりまして・・・。しかもブンガクとなるとさらに敷居が高くなる一方。

えいやッと覚悟をかためて、この改行がほとんどない文章のかたまりにかじりつきました。ノー改行とはいえ、本来漢字で表記しそうなところでひらがなを多用してるので、それほど読みにくさはないです。

物語は夕暮れの教室で行なわれる少年たちの「決闘」から始まります。風変わりでちょっとグロテスク。それはこの小説の持つテイストそのままです。

感情を失い老成してしまったような少年少女たちが残酷さと背中合わせのユーモアの中を漂い、ディスコミュニケーションや疎外感が作品世界を空気のように覆っています。社会問題となっている子どもたちの「いじめ」や社会を震撼させた酒鬼薔薇事件を連想させる部分もあります。

舞台はおそらく僕らの住む現実とは異なる世界なのでしょう。幽霊や怪物らしきものがいたり、国家が分断され戦争も起きてるようですが全体像は曖昧模糊としてよく分かりません。それこそぼんやりと夕闇につつまれたような世界観です。

話は決闘から町はずれの殺人事件、国境の向こうへの旅と脈絡ない感じで(失礼)展開していきます。唐突に主人公の回想になったり誰かの語る話になったり、ほとんど説明らしい説明もないまま時系列も行ったり来たりしているようです。

この小説の手法を真似ようとしても難しいでしょう。もはやワンアンドオンリー、作者以外の書き手には再現不能。まさに文藝賞受賞に値するオリジナリティです。作者は演劇に対する造詣が深いとのことですが、再現不能という点で演劇の一回性と本作『世界泥棒』はどこか共通しています。

作者はページの向こうから多くの“?”を投げかけてきます。分かりやすい本、分かりやすく意味が整理された文章に日ごろ慣れ親しんですっかりなまってしまった僕の感性は混沌の暗闇の海に投げ出され、必死にもがきながら新しい泳法を探す。そして少しずつ長い距離を泳ぐ力を獲得していくのです。

というわけで作品の核心を突いているとはとてもいえない印象評に終始してしまいましたが、感覚に訴えるタイプの本作を「批評」という意味重視の視点からとらえようとすることは矛盾しているし、たぶん作者も嫌がるでしょう。読み手には自らの持ち合わせる感性のみで判断してほしいと思っているはずです。

そうでしょう桜井さん? 遅ればせながら受賞おめでとうございます。また勉強会でお会いしたいですね。

2014年7月2日水曜日

駆け足でたどる都市と郊外の変貌 ~樋口忠彦著『郊外の風景・江戸から東京へ』(江戸東京ライブラリー)



江戸から明治維新、大正末の大震災を経て昭和初期にいたる時期の、郊外がスプロールしていく過程を、文学の古典や当時模索された都市政策の中に追った1冊(教育出版刊)。

まずは『江戸東京花暦』から当時の人々の生活を紹介。インターネットもTVもなかった江戸時代の人々には、月を眺めたり雪景色を観たりすることも立派に一つの娯楽だったんだな。春になればもちろん隅田川沿いでお花見したりして。まさに雪月花だ。

ここで東京の地形というやつが重要な意味をもってくる。お月見に適した場所というのは、月がのぼってくる東の方角に見晴らしの良い平坦な土地が広がっていてなおかつ小高い場所がよろしい。つまり上野のお山だとか、台地のへりに位置している湯島や日暮里らへんがお月見の名所になったというわけだ。

いまでは高いビルが林立してちょっと想像がつきにくいが、谷中あたりの小高い場所は眺望が開けてたんだなあ。東京という街を見る目が少し変わりそうだ。

雪や月や花を愛でた江戸時代の人々の暮らし。しかし人口増に伴いその風流さは市中からしだいに郊外へ追いやられていく。アメーバのように無軌道に膨張していく都市(=ベッドタウン)。幸田露伴は当時の東京の様子を目の当たりにし、「都会は都会らしく、郊外は郊外らしく、きっちりと隔てるべきだ」と提言したそうだ。大規模な都市開発も計画され、東京はその姿を大きく変貌させていく。

先の露伴はまた「誰しも都会に住みたい欲求と田舎に住みたい欲求を持っており、できればその両方を実現させたがっている」と大衆の欲望を喝破した。

それに付け加えさせてもらうなら、人々にはたんに自然への憧れだけじゃなく、「自分たちだけの家を持ちたい」ってのもあったんじゃないだろうか。

ちょっと天の邪鬼的な見方だが、郊外に移り住んだ人々はけして自然の中で脱文明の生活をしたかったわけじゃない。だからこそ新たな地にも都会と同等の利便さや娯楽をもとめたわけで。

さらに時代を下れば、戦後の東京には地方から大量の集団就職者が流入した。彼らが故郷と大家族を捨て都会をめざした背景には、地方の貧しさだけでなく、かつてのムラ社会の封建的な家父長制への嫌悪もあったろう。

都会に上京した人々は、仕事が軌道に乗り家族を持つと、故郷に戻ることはなくふたたび郊外に家を買い、ここに都市→郊外のサイクルは完成する。

くわえて「家族」を「消費者」としかみなしていない企業が、ニューファミリー(核家族)とやらの魅力をさかんにPRする。ここに未曾有の高度経済成長が始まった・・・。

江戸から東京へ。それは人々のマインドとライフスタイルが「風流」から「消費」へとシフトしていく過程でもあったのだろうか。

現代は少子高齢化を本格的に迎え、東京を取り巻く首都圏でも今後消滅する自治体が出てくるのではと懸念されている。むやみやたらと豊かさをもとめたしっぺ返しのような気もする・・・