2014年9月6日土曜日

喧嘩上等! 汚れた街をゆく孤高の哲学者 ~中島義道『醜い日本の私』



今回のエントリはちょっとビクビクもんで書いてます。誰が見てるか分かったもんじゃないインターネット。著者本人の目に触れる可能性もじゅうぶんにある… それでもどうしてもこの本はご紹介したい。泣く子も黙る怒りの哲学者・中島義道氏の『醜い日本の私』(新潮選書)です。

著者には「うるさい日本の私」という本もある。ひたすら客を呼び込む商店街のスピーカー、列車の乗降客にしつこく注意を呼びかけ続ける駅のアナウンス、お節介な役所の標語等々、無自覚にまき散らされる世間の雑音に著者がバトルを仕掛ける問題作だ。

著者はその本を出したとき、「タイトルの“うるさい”は、「日本」にかかるのか「私」にかかるのか」と知人から尋ねられたそうです。著者の答えは「“うるさい”日本の“うるさい”私」なんだとか。納得…。

その続編と言ってもいい本書のタイトルの意味も、「”醜い”日本の”醜い”私」だとか(笑)。いやあ、徹底して憎まれキャラを演じていらっしゃる。

今回も著者のヒールぶりは凄まじい。いきなり序盤であの大建築家・磯崎新氏の書いた文章に「おいおい、寝言をほざくなよ」とストレートにケンカを売るわ、勤務先の大学から教授仲間、住んでいる地元の役所まで、著者のゆくところ、どこでも凄絶なバトルが繰り広げられる。著者の主張はいちいちごもっともなんだけど、いやー読んでるだけで寿命が縮むわ。

…などと言いつつわたくし、この人のキャラはけして嫌いではない。嫌いではないんだけど、あまりお近づきにはなりたくない気もする(笑)。知り合いにこんな人がいたら身が持たんわ。うーん、まさにアンビバレンツ。ウイーン愛憎。

著者はけして相手を挑発しようとしているのではない。大真面目そのものだ。むしろ経過の一部始終を読むかぎりでは対応する側の不誠実さも目立つ。彼らは既成の常識を持ち出すだけで、自分の頭で考えようとしない。良識の皮をかぶって、対話することから、真摯に向かい合うことから、逃げているのです。そこが著者の怒りの炎に油を注ぐ結果となるのでしょう。

街の景観の話に戻るが、本書の冒頭で多田道太郎の「日本の商店街の原点は縁日である」という言葉が紹介されている。まさに至言だが、そのような商店街の風景に著者は違和感を捨てられずにいる。どぎつい悪趣味な看板、商店の店先から道ばたまではみだした商品の山、狭い路上に折り重なる放置自転車、頭の上でとぐろをまく電線…。

僕自身はゴミゴミした場所で生まれ育ったせいか、こういう景色がわりと嫌いではない。「美しい」とは間違っても思わないけど。著者自身いうように感性というものはひとりひとりちがうのだから、著者の意見に諸手をあげて賛成するつもりはない。

とはいうものの、電柱の林立する京都の街並みを美しいと誉め讃える人々について書かれたくだりを読むと、著者と同様の違和感を感じてしまう。善意のもとに巧妙なすり替えが行なわれているような気がするのだ。それはシャッターを閉めた店が目立つさびれた商店街を、「ここは歴史ある宿場町です」と持ち上げている、どことは言わないが僕の地元のギマン性にどこか通じるものがある。あんた、ほんとにそう思ってんのか?お客を呼びたいだけじゃないのか?って。

身のまわりの不快なものをそのまま見過ごしにせず、責任者のもとまで直談判に出向く中島氏は一見たんなるクレーマーのようだが、そうではない。哲学者である著者は自己の哲学を机上の空論とはせず実践に努めているのである。

そしてその実践の果てに、多数派が少数派を弾圧する社会の構造がみえてくる。この国に巣食う「多数決の名のもとに行なわれる排除」という重要な問題を、はからずもあぶりだすのです。これは見過ごしにできない。

ただ黙っていては状況は変わらないのです。失礼な店員の態度にふだんぐっと怒りを飲みこんでいるあなた、今日から「怒りの哲学」を実践してみては?